<「生の演技を一度見たら最後、以前の自分には戻れない」。本来の曲の世界観以上のものを作り出してしまう、世界最高峰の氷上の表現者・羽生結弦の魅力について、今注目の若手論客ヒオカ氏が語る>
静まり返った空間に、弧線や円、螺旋が描かれる。その線はよどみなく、力強く、繊細だ。無機質な世界が、どんどん染め上げられていく。彼のステップを踏む足が着地するその場所から、彼が手を差し出すその先から、見たことのない世界が広がっていく。
彼に合わせて世界が鼓動する。
彼は人であるけれど人を超えた存在。
それが、羽生結弦である。
音楽に合わせて踊ることに長けた人は、世の中にきっと多くいる。しかし、羽生結弦という人は、音楽に合わせるというより、もはや彼自身が、音楽そのものなのではないかと思うほど、緻密に、完璧に音楽を表現する。
指先までのすべての神経を使って、彼は表現する。呼吸一つでさえも、芸術である。次々と繰り出される彼の表現は、いつもこの世の常識を鮮やかに塗り替えていく。彼の演技を見るたび、「あぁ、この世界に、こんなにも素晴らしいものがあったんだ」と思うのだ。
彼は「憑依型」だと思う。曲ごとに、まるで人格まで変わったのではないかと思うほど、別人になるのだ。纏うオーラやたたずまいまでもががらりと変わる。
含みのある笑みも、カッと目を見開き前を見据えたときの迫力も、アンニュイで憂いをおびた儚い表情も、子どものような透き通った純心さも、流し目で振り向いた時のはっとするような色香やぞっとするほどの艶やかで凄みのある佇まいも、全てが心をつかんで離さず、虜になってしまう。リンクに立てば圧倒的な王者の風格を漂わせているのに、リンクの外ではあどけなく、けらけらとよく笑い、他の選手とよくじゃれあう。そして腰が低く徹底的に礼儀正しい。
そんな姿を見るたび、あぁ、羽生結弦も人間なのだ、と思う。そんな人間味あふれる姿も、また多くの人も心をつかんでやまないのだと思う。
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曲がかかれば、その曲の世界観に完全に入り込む。そしてその本来の曲の世界観以上のものを、彼は作り出してしまう。
「春よ来い」というプログラムがある。何度か披露されているが、印象的だったのは北京五輪でのエキシビジョンだった。優勝すれば94年ぶりの3連覇という、前代未聞の重圧を背負いながら、怪我の痛みとたたかった。
彼が納得の行く演技ができるのが一番だ。
そう多くのファンは思ったことだろう。でも、実際はあらゆる困難が襲った。リンクの穴にハマるハプニングもあった。そして4位という結果だった。
もしかしたら最後の五輪かもしれない。誰よりも完璧を追求する彼は、今回の五輪をどう捉えているのだろう。それはだれにも分からない。しかし、怪我の痛みもあるだろうし、きっと様々な考えが溢れ出し駆け巡っていることだろう。そんな中、滑ってくれるだけで十分、いやそれ以上だ。そう思っていた。そわそわした気持ちで、エキシビジョンの演技をテレビの前で待っていた。
しかし、彼がポジションについて音楽がかかった瞬間、息を飲んだ。そこにいたのは間違いなく、いつもの「羽生結弦」だった。空気を操り、空間に命を吹き込む。そんな羽生結弦という人間だ。
繊細なピアノの音にあわせ、見上げた顔は穏やかだった。まるでつぼみが開き、薄く透き通った花が揺れるように、たおやかに舞う。
春って羽生くんが連れてきてたんだ。
そんなことを思った。冬の寂寥感に、春の始まりの淡い彩りと瑞々しい香りが染み込んでいくように。春の何とも言えない切なさや色んなものが始まるソワソワしたあの感じ。あたたかい季節が始まる胸の高鳴り。大地や草花の芽吹きや華やぎ。
そんな、「冬と春の間」の複雑な空気感を、完璧に表現してる。絶妙、いや超絶な緩急のつけかたに、目を奪われる。どこまでも優しく優しく、しなやかに。腕や手先を繊細に使い、風のように、そして風で揺れる一輪の花のように、軽やかに舞う。
ここぞという時、ためたあと音楽はしっかりと、つよく、地を踏みしめ、根を張るように、突き上げるように鳴り響く。それに合わせ、彼もまるで何かから解放されたように、躍動する。音楽と共に、澄み渡った空気、穏やかな風がなだれこんでくる。
そして私の心も揺さぶられる。胸の奥が熱くなり、なにかがとめどなく溢れ出す。 気が付けば目には大粒の涙がたまっていた。(この原稿を書きながらも、演技を見返して何度も泣いている)
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私はこんなに美しい音楽を知らない。
私はこんなにも繊細で複雑な表現を知らない。
どこかノスタルジックで、感傷的で切ない感情が胸をかすめる。胸がきゅーっとなって苦しい。しかし、その切なさのあとに、霧が晴れたように、心が澄み渡り、やわらかい光が差し込んでくる。心にしみ込んでくる、心をふっと優しく包んでくれる、そんな何かに触れた気がした。
彼の演技を見るたび、こんな世の中でも、こんなに素晴らしいものがあるのなら、生きていてよかった、とさえ思えてくる。
間違いなく、彼の演技は多くの人を救っている。
プロに転向した今、彼はますます自由に表現を追求し、多くの人を魅了しているように見える。一般的にアマチュア時代が現役と言われ、その期間がピークと言われる。
でも、そんな常識は、彼はぶち壊す。
いや、軽やかにすり抜けて、彼は彼の世界の常識で生きている、というほうがしっくりくる。彼はどんな枠にも既存の概念にも当てはまらない存在。羽生結弦は、羽生結弦であり、それ以外のなにものでもないのだから。
後日談
この原稿を書いている時、羽生くんのプロ転向後初のアイスショー「プロローグ」の先行抽選結果が来た。
結果は、"もちろん"、全落ち‼
だってプロ転向後初のアイスショーですよ? 一人で最初から最後まで演技するんですよ?そりゃあみんなみたいよね‼‼‼‼ 当選する望みは限りなく薄いであろう。そんなことはわかっていたし、必死に心の準備もした。でも、仕事中に落選メールがきて、しばらく放心状態。仕事が手につかず、上司にもドン引かれるくらいの気の落ちようだった。
実は私、生で羽生くんを見たことがない。映像でもこんなに泣いて、圧倒されるのだから、生で見たら、本当に倒れてしまうかもしれない。
いや、もういっそう、倒れたい。
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生で羽生君の演技を見たら、自分がどうなってしまうのか、楽しみでもある。ファンの方の話を聞くと、一度見たら最後、それまでの自分には戻れないのだという。
いい、戻れなくていい。
変わり果ててしまいたい。
いつか! いつか演技を生で見たい。
この目に焼き付けたい。
あまりに生で演技を見たいと思い続けていたら、念じたかいがあってか先日夢に羽生君が出てきた。夢の中で羽生くんは発光していた。そこで完全に心奪われてしまった。
夢にまで見る羽生くん。遠くない未来に、その演技を生で焼き付けられますように。そう願いながら、今日も先日開設された羽生君の公式YouTubeチャンネルをみている。
ヒオカ(ライター)
1995年生まれ。地方の貧困家庭で育つ。noteで公開した自身の体験「私が"普通"と違った50のこと──貧困とは、選択肢が持てないということ」が話題を呼び、ライターの道へ。"無いものにされる痛みに想像力を"をモットーに、弱者の声を可視化する取材・執筆活動を行い、「ダイヤモンド・オンライン」(ダイヤモンド社)、「現代ビジネス」(講談社)などに寄稿。若手論客として、新聞、テレビ、ラジオにも出演。連載に『貧しても鈍さない 貧しても利する』(「婦人公論.jp」中央公論新社)、『足元はいつもぬかるんでいる』(「mi-mollet(ミモレ)」講談社)のほか、初の著書に『死にそうだけど生きてます』(CCCメディアハウス)がある。
※この記事はNewsweek 日本版からの転載です。