今月号の『Pen』は、大好きなアンディ・ウォーホルの特集号だ。
わが家にもウォーホルが額装された写真がある。写真と書いてしまったが、近くでよく見ると、雑誌の見開きをそのままきれいに切り取って額装したものだろう。大判の判型から昔の『エスクアィア』か『ヴォーグ』あたりのファッション誌に掲載されたものかもしれない。
左にウォーホル、右にプロボクシング元ヘビー級チャンピオンのソニー・リストンという構図だ。新宿の某百貨店で販売されていたもので、ウォーホルの写真に引き寄せられて近づいたが、購入を最後に決めたのは、そこに入った「fly on Braniff」の文字。もしかしたらウォーホルが出演した「ブラニフ航空(Braniff International Airways」と関係があるのではないかと思ったからだ。
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実はこれを見つける少し前に、某メンズファッション誌からエミリオ・プッチの原稿を依頼された。内容はブランドの沿革というよりは、本人のファッションについて書いて欲しいという依頼だった。ファッションではメンズ畑を歩いてきた私、エミリオ・プッチはブランドこそ知ってはいるが、本人のことになるとまったく知らない。英語で書かれた資料と取材に応えてくれた人たちの話を頼りに苦労して書いた覚えがある。
創業者エミリオ・プッチはフィレンツェ出身の貴族。プッチ家は十字軍に参加したこともある家柄で、メディチ家からボッティチェリの絵を贈られたこともあるという、いわば名家。彼が生まれたのは1914年だが、引き継いだときには、15世紀に建てたれたプッチ宮殿は老朽化し、ボッティチェリの絵も手放さなければならいないほど暮らしぶりは困窮していた。
ブランドを立ち上げるきっかけとなったのは彼がデザインしたフード付きのブルゾンに絞られたパンツという当時では斬新なスキーウェア。その服を纏ったプッチが48年のアメリカの雑誌『ハーパース・バザー』に掲載され、彼のデザインがイタリア以上にアメリカで注目を集めることになる。その後、50年代には抽象的なデザインと色彩が万華鏡のように渦巻くさまざまなプリント柄を開発、「プリントのプリンス」の異名をもつまでになった『LIFE』誌のインタビューでは「千年のわが家の歴史のなかで、初めて働いたのが、私」と応えている。そんな彼が1965年にデザインしたのが、「ブラニフ航空」のユニフォームだ。制服だけでなく、機内や空港施設までプッチ柄に塗られたという話が伝わっている。
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ブラニフ航空は1928年、ブラニフ兄弟が創業した「ブラニフ・エアウェイズ」がルーツ。当初国内便ばかりだったが、やがて大型のジェット機を導入して国際線を運行するまでに成長する。航空会社の競争が激しくなると、差別化を図って「The End of The Plane(さよなら退屈な飛行機)」というキャンペーンを行い、エミリオ・プッチやハーマンミラー社でテキスタイルディレクターを務めるアレキサンダー・ジラルドを起用しイメージの刷新を図った。それに合わせて飛行機の機体も「ジェリー・ビーンズ・フリート」をテーマに15色に機体の色分けを行い、チケットから機内で給されるカトラリーまでデザインにこだわったと聞く。そして広告戦略も独特。ウォーホルなどの有名人を使い、ブラニフ=ファッショナブルという印象を人々に植え付けた。冒頭のウォーホルとリストンの広告はそのときのものと見て間違いない。
ブラニフ航空は、60〜70年代でもっとも成功された航空会社と言われ、70年代にはアメリカで唯一、超音速旅客機のコンコルドを保有していたが、80年代には破産宣告を受け、92年には完全に姿を消してしまった。まさに「伝説のエアライン」というわけだ。
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プッチがこの航空会社のためにデザインしたユニフォームは60年代ということもあるだろうが、フューチャリスティック=未来的。彼が得意とするスポーツウエアから発想していると思われるが、テレビドラマ『サンダーバード』に出てくるユニフォームに近いようにも見える。アレキサンダー・ジラルドがデザインしたと言われるラウンジの写真が残されているが、デザイン性に溢れ、統一感も完璧。70年代にはモビールで有名な芸術家アレクサンダー・カルダー、新しいユニフォームのデザイナーにホルストンを起用したという。この伝説の飛行機会社の全容を観てみたいと思うのはたぶん私だけではないだろう。どこかの雑誌、デザインに強い『Pen』で、ぜひとも特集をやってくれないだろうか(笑)。