9月17日から京都市京セラ美術館で展覧会『ANDY WARHOL KYOTO / アンディ・ウォーホル・キョウト』がスタートする。“ポップアートの旗手”はどんな人物だったのか。アシスタントの頃、ウォーホルと撮影をともにしたという写真家・ホンマタカシへのインタビューから、その姿に迫る。
証言 | ホンマタカシ
どこか淡々としていて、人間離れした雰囲気だった
僕は1985年ニューヨークで、アンディ・ウォーホルに会っています。とはいえ実は、鮮明な記憶なんてないんですけどね。このページにも載せたツーショットの写真がたまたま残っていたから、「そういえば会ったんだな」と、かろうじて記憶を掘り起こせただけで。もしこの写真がなかったら、人に聞かれても、「会ったはずだけど、夢だったかも?」となっていたんじゃないでしょうか。
写真の役割って結局こういうことなんでしょう。記憶を蘇らせるのに最も便利で確実なツールというか。写真がないから忘れちゃっていることなんて、きっと山ほどあるんだと思いますよ。じゃあ、この写真を見ながら、当時のことを思い出してみると……。
この時はマガジンハウスの取材で、僕はカメラマンのアシスタントとして、現場にいました。雑誌『an・an』のニューヨーク特集のためでした。僕にとっては、これが初の海外経験です。それがいきなりウォーホルの取材だなんて、すごいラッキーな巡り合わせだねと思われるかもしれませんが、当時はそれほど特別なこととは思いませんでした。というのもウォーホルの立ち位置が、いまほどスター扱いされていなかった気がするんですよ。いやもちろん有名アーティストではあったんだけど、別世界の存在として崇められていたというのではない。
ニューヨークのアートシーンは昔もいまも、本人が没してからのほうが神格化されて、作品価格も跳ね上がる傾向にあるんじゃないかな。ダイアン・アーバス、ロバート・メイプルソープ、キース・ヘリング、バスキアといった人たちの例もありますしね。だから取材自体も、さほど特別な態勢が敷かれたわけじゃなくて、数ある取材のひとつとしてこなされていった記憶があります。
あの「ファクトリー」に出向いて撮影をしたんですけど、ウォーホルひとりを撮るんじゃなくて、洋服を着たモデルを彼の横に立たせて撮ったりしていました。つまりファッション撮影を、ウォーホルを入れ込んでやったということ。すごいですよね、さすがにいまじゃ考えられません。それでもウォーホルはミーハーなところがあるから、ノリノリとは言わないまでも特に嫌がるでもなく、淡々と撮影に応じてくれていました。現場がピリピリしていた覚えもないです。
ウォーホルを間近で見た感触は……
やっぱりちょっと人間離れをした雰囲気はありましたね。どこか、アンドロイドのような感じさえ漂っていた。そういえば撮影前、いきなりコンタクトレンズをはめて、その上でメガネをかけていました。メディアに出る時は必ずこの格好で、とスタイルを自分で厳格に決めて守っていたんでしょう。佇まいとしては威圧感なんてまったくなくて、どちらかというとシャイな空気を漂わせていました。当時の僕は、ウォーホルがなにをなしたのか、どんな人が周りに集っていたのかを、あまり勉強していなかったから、特になんのオーラを感じることもなかった気がします。このツーショット写真も、ずいぶん気軽に撮っていますものね。
僕自身のウォーホルに対する見方を言えば、シルクスクリーンやら写真やらと複製芸術を意識的に手がけた人として関心をもっています。いちばん好きな作品は、エンパイア・ステート・ビルを一晩中撮影した8時間におよぶ映像作品。ストーリーなどはないけれど、だんだん暗くなってビルのライトが点滅したり、ウォーホルが時々映り込んだり、わずかな変化が起こる。物語のある作品だけでなく、本来はこういう実験的な映画もあるべきだと思います。撮影は、実験映画作家のジョナス・メカスです。あと気になる作品を挙げるとすれば、死刑台として使われる装置をシルクスクリーンの作品にした『電気椅子』でしょうか。
ウォーホルはいまや「ポップアートの巨匠」といわれる存在ですが、もともとは「キワモノ」的な要素が強いアーティスト。その言動からは考えていることを読み切れない、興味深い人であることは確かですね。
ホンマタカシ
1962年、東京都生まれ。写真家。広告制作会社ライトパブリシティ入社後フリーに。99年、写真集『東京郊外 TOKYO SUBURBIA』で第24回木村伊兵衛写真賞を受賞。2004年には写真家・中平卓馬を追った映画『きわめてよいふうけい』を撮影。著書に『たのしい写真 よい子のための写真教室』など。
※この記事はPen 2022年10月号「知らなかった、アンディ・ウォーホル」より再編集した記事です。