会員限定記事

アンディ・ウォーホルの元助手が語る、“アートの巨人”の意外な素顔とは?

  • 写真:加藤里紗
  • 文:長谷川安曇
  • コーディネート:鈴木希実
Share:

9月17日から京都市京セラ美術館で展覧会『ANDY WARHOL KYOTO / アンディ・ウォーホル・キョウト』がスタートする。アンディ・ウォーホルにとって最後のアシスタントであったベンジャミン・リウが明かす、知られざるウォーホルの素顔とは。4年間、濃密な時間を過ごしてきた彼が語ってくれた。

7dcdd9a93e3f8d4b8e2c57ca05b706792239eddc.jpg
ベンジャミン・リウ●台湾出身の台湾系アメリカ人。ヴィクター・ヒューゴらとパーティへ行くうち、ウォーホルと知り合う。1982年、28歳の時から4年間、ウォーホルのアシスタントとして働いた。ウォーホル作品で好きなのは、アートフィルム。現在はファッションショーやコマーシャルのプロデュース業に携わる。
立っているのは、73年から84年までファクトリーが入っていたユニオンスクエアのビルの前。裏側の搬入口から雑誌『インタヴュー』の搬入を行っていた。

アンディ・ウォーホルと、ベンジャミン・リウが出会ったのは、1980年代初頭。当時活躍していたアーティストで、ファッションデザイナーのホルストンのパートナー、ヴィクター・ヒューゴにパーティで紹介された。

顔見知りだったウォーホルから、リウは二度アシスタントにならないか尋ねられている。一度目は、「当時は無知で、ウォーホルなんて大したことはないと思っていて」断った。しかし、82年、機会はもう一度訪れる。ウォーホルが所有していた海辺の街、モントークの別荘をホルストンが借りていて、ウォーホルとリウを招待したのだ。みんな水着なのに、ウォーホルだけ全身黒ずくめの厚い服を着ていた。黒い傘をさしながら写真を撮っていたので、「傘を持つよ」と言ったら、再度アシスタントにならないかと尋ねられ、翌日から働くことになった。

1_MG_5050.jpg
1984年にファクトリーのインターンが撮影し、現像後に譲ってくれたウォーホルとリウの写真。「この時の状況も、自分がスーツをきている理由も覚えていないが、とても気に入っている写真」(提供:ベンジャミン・リウ)

リウの仕事は、ウォーホルが撮影した写真やポラロイドの管理だけでなく多岐にわたった。

「毎朝ウォーホルの家まで迎えに行ってファクトリーまで同行し、作品のコレクターたちと一緒にランチを食べました。甘党だった彼とよくジェラートも食べましたね」と、リウは当時を述懐する。また、ウォーホルはアートコレクターでもあり、有名無名を問わず多くの作品を集めていた。しかし自身がオークションに参加すると、彼が金持ちなのは周知の事実で、値段が上がる。そのためリウが代わりにオークションに参加し、ウォーホルの欲しい作品を落札することもあった。

「アンディは滅多に怒らないけど、一度だけ、気分を害させたことがある。いつもかぶっていたカツラのグルーを買いに頼まれた時、間違えてピエロ用のカツラのグルーを買ってしまった。カツラに関しては、敏感だった」

また、バスキアなど若い世代のアーティストにほのかなライバル心も抱いていた。バスキアの大きなペインティングを見ては、「僕はもっと小さいサイズにしようかな」と話していたという。

3_MG_5048.jpg
ウォーホルがポラロイドで撮影したリウの写真。ふざけて豚の鼻を付けている。ウォーホル撮影のポラには エンボス加工が施されている。(提供:ベンジャミン・リウ)

85年に一度、リウはジュエリーデザイナーになろうと、アシスタント業を離れた。しかしウォーホルは電話をしてきて、「金曜日に来てくれたらチョコレートあげる」と言い、頻繁にチョコレートを送ってきた。ウォーホルはニキビを気にして、ある時からチョコを口にするのをやめたが、もらったチョコが大量にあり、それを送ってきたのだ。彼の熱意に折れ1年後に復帰。結局、リウがコマーシャルのプロデュース業を始める86年まで、計4年間働いた。

「ペインティングはアシスタントに描かせていたけど、線画だけは、ひとりの世界に浸って描いていた。彼の仕事への情熱と集中力は印象的でした」

2_MG_5061.jpg
好きな作品のポストカード。「友達にあげるため、アンディにサインしてもらった」という。「エルヴィス」と「ダンス・アイアグラム」「ミックジャガー」。(提供:ベンジャミン・リウ)

関連記事

※この記事はPen 2022年10月号「知らなかった、アンディ・ウォーホル」より再編集した記事です。

Pen10月号_表紙_RGB_本誌.jpg