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彼らがウォーホルを作り上げた? ”ウォーホルの13人”とは?

  • 文:小崎哲哉
  • イラスト:高橋将貴
  • 編集:久保寺潤子
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9月17日から京都市京セラ美術館で、展覧会『ANDY WARHOL KYOTO / アンディ・ウォーホル・キョウト』がスタートする。ウォーホルは自らを世界と一体化しようとし、人生そのものをアートにした。だとすれば、作品を観るだけでは彼のアートを理解したことにならない。天才アーティストを育み、刺激とインスピレーションを与え、知恵を授け、手助けをし、人生を変えた13人の人物図鑑を紹介しよう。

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アンディ・ウォーホル

1. ジュリア・ウォーホラ(1891-1972)

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3人兄弟の末っ子アンディに絵を教え、息子が成功するとニューヨークに出て、生涯の大半を同居して過ごした母。信心深く、自らを「年寄りの百姓女」と呼び、家事全般を担う。多くの猫を飼い、息子とふたりで別々に描いた猫の絵本を合本にして出版もした。長年にわたる飲酒癖のためか1971年に脳卒中に襲われ、故郷ピッツバーグに戻って入院する。ウォーホルは毎日電話をかけ、お忍びで病院に通ったという。母親の死後に制作した肖像画には、宗教画に見られるような光彩が描かれている。

2. チャールズ・リザンビー (1924-2013)

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ウォーホルが若き日に知り合ったボーイフレンドのひとり。テレビ番組のセットデザイナーで、のちにエミー賞を3回受賞し、業界の重鎮となる。「背が高く、色が黒く、乗馬好きの南部の家の出身」で、ドローイングのモデルとなり、一緒にオペラを鑑賞し、展覧会を観て回り、絵本を共作した。1956年には6週間にわたる世界一周旅行をともにし、日本では東京以外に京都などの地方都市を見物。後年のボーイフレンドと異なり、性的関係は結ばず、友情以上恋愛未満だったとされる。

3. マルセル・デュシャン(1887-1968)

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便器に偽のサインを施しただけの『泉』(1917年)など、既成品を選び、名づけ、別の意味をもたせる「レディメイド」を考案した現代アートの父。ウォーホルは後年『泉』のレプリカを購入している。代表作の『花嫁は裸にされて彼女の独身者たちによって、さえも』(1915〜23年)は、性の欲動と宇宙の生成原理を主題とし、世界の理を追究する作品。「父」を超えようとした後進は多いが、当然容易ではない。ウォーホルだけが「世界を所有する/世界になる」という野心的な目標を掲げ、「父」に肉薄した。

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4. トルーマン・カポーティ(1924-1984)

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19歳でオー・ヘンリー賞を受賞した早熟の天 才小説家。30代前半で発表した『ティファニーで朝食を』はオードリー・ヘップバーン主演で映画化された。本人いわく「私はアル中である/ヤク中である/ホモセクシュアルである/天才である」。ウォーホルはその才能と美貌の虜となり、ストーカーまがいの行動に出るが、後に親しくなる。1966年、『冷血』が世界的ベストセラーとなり、「アメリカが凝縮された」と評された仮装舞踏会を主催。招待客の豪華さは、ウォーホルを呆然とさせた。

5. エミール・デ・アントニオ(1919-1989)

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通称は「ディ」。「エージェントのようなもの」として、ロバート・ラウシェンバーグ、ジャスパー・ジョーンズ、フランク・ステラら歴史に名を残すアーティストが世に出ることに一役買う。ウォーホルが初めて描いた油画はコカ・コーラの瓶がモチーフだったが、抽象表現主義的タッチの残るものと無駄な線を省いたものの2点を見せられ、迷わず後者を推す。

ポップアーティストとしてのウォーホルの進むべき道を決定した歴史的瞬間だった。政治的なドキュメンタリー映画製作でも知られる。

6. ヘンリー・ゲルツァーラー(1935-1994)

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「死と惨事」シリーズなど、多くの着想をウォーホルに与えたキュレーター。ドル札やキャンベルのスープ缶のアイデアも友人からもらったウォーホルは、「ポップは外部から来るもの」と平然としていた。1966年のヴェネツィア・ビエンナーレで米国館コミッショナーを担当。毎日何時間も長電話をする仲だったが、ウォーホルのライバル、ロイ・リキテンスタインや、同い年のヘレン・フランケンサーラーを出展作家に選んだことで不仲になる。その後、関係を修復。生涯よき友にして庇護者だった。

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7. ジョナス・メカス(1922-2019)

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リトアニア出身の詩人、映像作家。代表作は映画『リトアニアへの旅の追憶』。第2次世界大戦中に地下出版に携わり、弟とともに難民となる。戦中・戦後をいくつかの収容所で過ごした後、1949年にニューヨークに移住。フルクサスの中心人物ジョージ・マチューナス、詩人アレン・ギンズバーグ、オノ・ヨーコ、ジョン・レノンらと親しく交わった。実験映画の上映会を度々企画し、若き日のウォーホルも足繁く通った。自らが共同創設した組織で、ファクトリー作品の多くを上映している。

8. ジェラード・マランガ(1943-)

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ウォーホルの最初のアシスタント。シルクスクリーン技法に詳しく、作品づくりを手伝う一方、スーパースターらとともに多数の映像作品に出演。ファクトリーの黄金時代を支えた。イベント『エクスプローディング・プラスティック・イネヴィタブル』では、SM的な「鞭のダンス」を披露して人気を博する。ウォーホルと動画ポートレートシリーズ「スクリーン・テスト」を制作し、雑誌『インタヴュー』の創刊にも参画するが、1970年にファクトリーを離れ、写真と映画制作に専念している。

9. イーディ・セジウィック(1943-1971)

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名門の旧家に生まれるが、父親の浮気現場を目撃。逆ギレした父親に精神病院に送り込まれる。退院後、1964年にニューヨークに移住し、社交界のアイドルとなる。翌年、ウォーホルに紹介され、『プア・リトル・リッチ・ガール』などのファクトリー映画十数本に出演。私生活でも行動をともにし、「双子のようだ」と言われた。その後、ボブ・ディランと交際を始めるが、ディランは秘密裏に別の女性と結婚していたことが発覚。破局後は薬物に耽溺し、過剰摂取によりこの世を去った。享年28。

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10. ニコ(1938-1988)

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ドイツ出身のシンガーソングライター。モデルや映画俳優を経て、1965年に歌手デビュー。同年、ウォーホルとマランガに請われ、ボーカルとしてヴェルヴェッツに参加する。だが他のメンバー、特にリーダーのルー・リードと反りが合わず、ソロ活動に転向。他方、ウォーホルには気に入られ、映画『チェルシー・ガールズ』にプチ出演している。88年、スペインのイビサ島で、俳優アラン・ドロンとの間に生まれた息子との休暇中に、マリファナを買いに出て乗っていた自転車が転倒したために死去。

11.ヴァレリー・ソラナス(1936-1988)

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1968年6月にファクトリーでウォーホルを狙撃し、重傷を負わせたラディカルフェミニスト。前年に「政府を転覆し、貨幣制度を廃絶し、完全なオートメーションを導入し、男性を撲滅せよ」という「SCUM(男性抹殺協会)マニフェスト」を発表していた。以前からファクトリーに出入りしていたが、自作戯曲を剽窃されたと思い込み、犯行に及んだ。当日に自首し、統合失調症と診断され、治療期間も含め3年間服役。出所後、ウォーホルや周囲の人々に付きまとい、再度逮捕される。88年、肺炎で死去。

12. フレッド・ヒューズ(1943-2001)

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辣腕アートマネージャー。大富豪ド・メニル夫妻と親しく、1967年秋にウォーホルと知り合いになると、夫妻の財団のための映像撮影をファクトリーに委嘱。ウォーホルは余った予算で映画『ロンサム・カウボーイズ』を撮り終えた。狙撃事件後、ファクトリーのアート部門を担当。映像部門担当で、映画『悪魔のはらわた』『処女の生血』などを監督したポール・モリッシーとともに運営の要となる。大阪万博のホログラム作品や、ほとんどの注文制作ポートレートは、ヒューズが取ってきた仕事だ。

13. パット・ハケット(unknown)

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狙撃事件の3ヶ月後、学生の時に「パートタイムのタイピスト」としてファクトリーに加わる。1975年にウォーホルをインタビューし、既存の録音も使ってまとめた『ぼくの哲学』を共著として刊行。続いて、60年代を回顧した『ポッピズム』を80年に出版した。76年11月からは、死の5日前まで毎日、電話で前日の活動を聴き取る作業を続け、89年に『ウォーホル日記』として発表。ウォーホルには収集癖があったが、600個以上の「タイムカプセル」とともに、録音や日記も収集物と見なせるだろう。

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※この記事はPen 2022年10月号「知らなかった、アンディ・ウォーホル」より再編集した記事です。

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