MOODMANと申します。今回も、注目のアナろぐアイテム「南部鉄器のレコードスタビライザー」について、深掘りさせていただきます。
岩手県奥州市水沢に工房を構える「及富」の創業は1848年。伊達家お抱えの釜師から始まり、170年を越えてサスティナブルなものづくりを継承してきた、いわば職人の集団です。
第二回目になる今回は、南部鉄器の歴史、その延長線上にある「及富」の今について、株式会社「及富」の専務である菊地章さんにお話を伺いました。
※第一回目はこちら
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900年前、なにもない原野に都を築いた
MOODMAN 昨年末に、実際に及富さんの工場を伺わせていただいて、いろんな工場を伺わせていただいてるんですけど、その中でも独特っていうか、すごい迫力あるというか、熱量がある現場だったなって、すごく印象深く思ってるんですけど。まずは、及富さんの工場がある地域がどういったところか、ご説明していただけますか。
菊地章(以下、菊地) 我々が住んでるとこは、奥州市っていうところなんですけども。どうしてこの地で、南部鉄器が始まったのかっていうのが、皆さんご興味おありだと思うんですけど。
奥州市から大体20キロぐらい南の方にあるところで、平泉っていうところがありまして、平泉文化っていうのが、900年前に藤原三代という、藤原家って有名な武士が、都市を築いたんですね。
その都市は京都をモデルにして、こちらに都を築いたわけですね。900年も前ですから、なにもない原野に、ある日突然じゃないですけど、いろんな方々が集まって、都を築いたわけなんですね。
MOODMAN はい。
菊地 そのときに都を築くには、産業が必要になってきます。当時人々の暮らしを支えるために、一番の基盤となったのは農業です。そのために畑を耕したりする道具、鋤や鍬が必要になった。その当時は鉄の鋳物、鉄で道具を作る必要があったわけです。
そこで米を作り人が生まれ、文化がどんどん発達し、といったようなことに関して、京都の方から鋳物師がこちらへ来るときがあった。
その頃は、鋳物師(いもじ)と呼ばれてましたけども。鋳物師(いもじ)がこちらに一緒にきたんです。そこから鉄の鋳物を作る場合には、鉄資源がなきゃいけないんですけど。ここには鉄があったんですよ。鉄はいつも取れたし、鉄を溶かすためにいまはコークスと呼ばれる良質の木炭が必要です。
木炭にする材は、クヌギとかナラとか非常に大きい木で、成長が早くて、炭にしやすい木が必要だったんですけども、岩手県にはそれがありました。
MOODMAN なるほど。
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湯釜に注ぎ口がついたのが鉄瓶だった
菊地 鋳物で型を作るための、原料の砂と粘土も必要なんですが、それも潤沢にありました。ちょうど鋳物の産業を起こすのには、最適な場所でした。
あと、北上川という大きな川があるんですが、その川に船を浮かべて、鉄の製品を作ったのちに船へ乗せて川から運べると。
MOODMAN 運べる利点もあるんですね。
菊地 そうですね。そういった環境が整っていたことで、ここで鋳物が栄えてきたということなんですけど。その当時は、先ほど申し上げたように農機具や、侍たちが着る甲冑の一部とか、あとは兜や剣ですね。
あとは宗教施設、お寺さんの狛犬であったりとか。鉄器製の狛犬っていうのも、この近くにあります。あとはお寺の鐘ですね。お寺の鐘は、銅がほとんどなんですけども鉄で作っていたものもあります。
南部鉄器が始まったのは、そういう流れ現在まで続いています。江戸時代の後期ぐらいからは、鉄瓶というものが、出現してくるんですけども。
千利休はご存知だと思うんですけど、茶道を始めたのが、やっぱり900年ぐらい前にさかのぼるんですけど。茶釜と言われるお釜は最初、京都で作られました。南部鉄瓶には注ぎ口ありますけども、注ぎ口がないのが茶釜だったわけですよ。湯釜に注ぎ口がついたのが鉄瓶だったんです。
MOODMAN なるほど。そういう歴史だったんですね。
菊地 そうなんですよ。その鉄瓶が世の中に出現したのが200年ちょっと前ぐらいからなんですね。そういう鉄器の流れ、移り変わりがありまして、日本全国に鉄瓶というものが、どの家でも一つはあると言われてきた時代は、明治から大正時代です。その当時の価格は、20円とか30円の世界。
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50年先100年先、溶かさない限りずっと残っていく
MOODMAN 当時の円の価値がわからないですけど、どうなんでしょう、安いものだったんですか?
菊地 安かったんです。生活の道具ですから、鉄瓶があればずっとそれでお湯を沸かして、囲炉裏の上でずっと沸かしておけるという。
たくさんの工程を経て作る鉄瓶なんですけれども、価格や安いこともあり、それだけではなかなか生活が立ち行かないので、農業をやる傍ら、鉄瓶を作るという職人もたくさんいたわけです。
MOODMAN その当時の供給は奥州から全国に行ってたんですか?
菊地 そうですね。南部鉄瓶っていう名前が鉄瓶とともに全国に広がっていきました。まだアルミの時代ではなかったんですね。1930年とか1920年代ですから。アルミが鉄に変わって一般家庭に入り込んできたのが、1940年代、50年代です。
鉄みたいに錆びなくていいと。アルミも錆びるんですけどね。鉄よりも軽くて丈夫でいいっていうことで、アルミにどんどんと押されてしまいました。そこから鉄鋳物は少し、冷え込んでいったってことがありました。
鉄瓶の時代があって、今度は戦後に日本が復興して、鉄でできた灰皿の時代とか、風鈴の時代っていうふうにどんどん様変わりしていきました。
MOODMAN 鉄の灰皿は確かに、昭和のイメージとしてありましたね。
菊地 戦後復興してくると、いろんな企業がかなり右肩上がりで、商売が盛んになってきますと、記念品で鉄製品を使いましょうっていう会社さんが増えました。日本全国の会社、関東、関西、九州、北海道も含め、ノベルティの商品をつくる機会が増えました。
MOODMAN なるほど。
菊地 パナソニックだったり、東芝だったりの企業ですとか、石原プロダクションからの依頼もありましたね(笑)。
MOODMAN 灰皿とか、栓抜きとかですかね。
菊地 そうですね。その鉄器が重宝されたときもあったんですけど、それがアルミに変わって、今度はプラスチックに変わっていった。時代の流れとともに、我々の仕事もその時代とともに一緒に動いてくる感じ。
今は本当に見直されてるというか、やっぱり自然の素材っていうのは、本当に我々が生きていく上では、欠かしてはいけないんだっていう意識がすごく高い時代になってきたなと思うんですけどもね。
そういうなかで、大川が考えてくれた、音に特化したスタビライザーっていうものが、流行とか関係なく、ずっと残っていくもので、これから50年先100年先でも溶かさない限りは、ずっと残っていくものなので。
これもやっぱり、「100年前に誰か考えてこういうモノががあったんだな」っていうのは残っていくと思うんですよ。
大川寛樹(株式会社及富) スタビライザーが100年後にあるってことは、レコードもあるっていうことになると思うんですよね。
MOODMAN レコードというメディアには、今まで100年ちょっとの歴史がありますけど、(100年に渡って)全世界で作られてきた資産でもあるので、そう簡単にはなくならないなと。それを(今後も)しっかり聞くためのものの一つとして、スタビライザーもすごく大事なものだなと思ってるんですよね。
(#9に続く)
アナろぐフィールドワーク#7
世界初、南部鉄器のレコードスタビライザーは、 どのようにして開発されたか
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