映画『シン・ウルトラマン』で半世紀以上の時を超えて蘇るウルトラマン。企画・脚本を務める庵野秀明が『シン・ウルトラマン』のデザインコンセプトにおいて目指したのが、成田亨が描いた“原点”への回帰だった。かつて演出上で重要な役割を担ったカラータイマーは存在せず、スーツのファスナーを隠すための背びれもない。
美術総監督の役割を担い、ウルトラマンや数々の怪獣をデザインした成田亨の芸術家としてのこだわりと情熱、そして父としての横顔を、子息の成田浬(かいり)さんに語ってもらった。不遇な時代も含め、そばで見続けてきた肉親だけに明かした創作の原点など、成田亨と親交のあったライターの幕田けいたが話を訊く。
『シン・ウルトラマン」で表現された、成田亨が夢見た理想のウルトラマン
1966年の放送開始から56年。世代を超えていまもなお愛され続け、国民的ヒーローとも言える『ウルトラマン』。そして、『シン・ウルトラマン』の製作を機に、改めてその名が着目されたのが、芸術家・成田亨である。ウルトラマンをデザインし、さまざまな怪獣のビジュアル面の生みの親である成田は、初代『ウルトラマン』の美術総監督の役割を担った人物だ。
そのキャリアを簡単に振り返ろう。旧制青森中学(現・青森高校)在学中から洋画家・阿部合成に師事した成田は、武蔵野美術学校(現:武蔵野美術大学)に入学。研究科在籍中、日本初の本格怪獣映画『ゴジラ』に美術スタッフのアルバイトとして参加する。これを機に、東宝だけでなく大映や松竹、東映などの特撮美術に携わり、60年、東映の特撮美術監督に就任。65年に、円谷英二に誘われて「ウルトラQ」に参加する。続く『ウルトラマン』『ウルトラセブン』では、実質的な美術総監督として企画段階から関わり、ウルトラマンをはじめとするキャラクターや怪獣、メカ、防衛隊のコスチュームや基地のセットにいたるまでをデザイン。後の特撮作品に多大なる影響を残した。
庵野秀明が、「成田亨氏が描いた『真実と正義と美の化身』を観た瞬間に感じた『この美しさを何とか映像に出来ないか』という想いが、今作のデザインコンセプトの原点でした」と表明したように、映画『シン・ウルトラマン』に登場するウルトラマンは、成田が目指した理想を具現化したものと言える。息子である成田浬さんにとっても『シン・ウルトラマン』は感慨深いものがあるようだ。
「父は、『真実と正義と美の化身』という絵を描いていますが、この絵画を映画にしたいと、企画の庵野秀明さんに仰っていただいたんです。あの絵には、父のいろんな思いがこもっているので、そこから庵野さんがインスピレーションを得られたのは、すごく嬉しかったですね」
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ウルトラマンは、大人たちの純粋で真摯な想いが込められていた
『シン・ウルトラマン』のウルトラマンには、よく知られた胸のカラータイマーがない。カラータイマーは成田が意図したものではなく、66年のオリジナル版『ウルトラマン』の番組製作上、後付けで加えられた要素だった。
「最初につくられたウルトラマンには、作品に関わった大人たちの、純粋で、真摯な想いが込められていたと思うんです。放送当時、ウルトラマンを観た子どもたちは驚いたり感動したり、心をザワザワさせた。庵野さんや樋口監督、『シン・ウルトラマン』のスタッフのみなさんもきっとそうだったと思うんです。初代『ウルトラマン』を観た時に受けた衝撃と感動を、いまの観客にも体験させたかったんじゃないかなと、勝手にそう解釈しています」
不幸にも、成田亨と円谷プロの経営陣の間には、クリエーターの権利に関しての考え方に大きな溝があった。生前の成田は「美術が主役の作品における正当な権利」を主張し続けたが、その願いが叶うことなく他界した。期せずして、円谷プロの経営形態に大きな変化もあり、両者による対話が重ねられ『シン・ウルトラマン』の制作につながったという。
「成田亨がウルトラマンをデザインしたという話が、改めて世にアナウンスされることは喜ばしいことですし、新しい時代を拓く上でよいタイミングだったと思います。2014年〜15年にかけて開催していただいた、富山・福岡・青森の3館合同での展覧会(『成田亨 美術/特撮/怪獣』展)もそうですが、近年、父の仕事がより幅広い世代に知ってもらえる機会をいただけたことに感謝しています。成田亨というひとりの芸術家がしてきた仕事をどのように受け止め、どう新しいものにつないでいくかは、後世のクリエイターたちの宿題なんじゃないでしょうか。なにより『シン・ウルトラマン』がよい映画になって、いろんな人に観ていただき、話題になったらいいですよね」
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実質的な美術総監督として、怪獣のデザインからセットまで責任をもつ
初代ウルトラマンのデザインを生んだ成田は、当時の現場をどう見ていたのだろうか。
「脚本家でウルトラマンの企画を立てた金城哲夫さんについて、父は『金城さんとは、ちょっと飲んでみたかったな』とよく言っていましたね。ふたりで飲む機会はなかったようですが、『あの男は面白かった』って。年齢でいうと金城さんは父よりだいぶ下なんですけど、金城さんのことは一目置いていたようですね。それと監督の円谷一(はじめ)さんのことも『彼はいい男だった』と時折言っていました。とにかく現場は忙しすぎて、コミュニケーションが取れなかったみたいです。そういう時間や機会があれば、いろいろ違っていたと思うんですけれどね」
『ウルトラQ』の撮影がスタートした時、現場のスタッフはTBSや東宝から出向した演出陣と助監督陣、東宝の特撮スタッフ陣を中心に、熱気あふれる若い人材が集っていた。そして制作が始まってから足りない部分を補強するように、キャリアのある中堅スタッフが加わっていった。そのひとりが成田であった。成田は『ゴジラ』に美術スタッフのアルバイトとして参加して以降、『ウルトラQ』で円谷英二と再会するまでの15〜16年の間、東宝を皮切りに東映、大映、松竹、日活といった各映画会社で、何百本もの映画美術を手がけていた。
左:「カネゴン決定稿」1965年/金を食べる怪獣という設定から頭部はがま口に。体形は妊婦から着想され、全身は巻貝的な意匠で整えられている。こうしたさまざまな要素の合成によって斬新なかたちを生み出していく点に、成田怪獣の大きな特徴がある。 右:「ガラモン決定稿」1965年/成田は動物図鑑などを参照し、面白いと思ったかたちをすぐさま怪獣デザインへ取り込んでいった。ガラモンはコチの口の形状からイメージを膨らませたもので、まるで珊瑚にひそむ魚のように全身が突起物で覆われている。
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「父は、円谷英二氏と再会した頃には、既に東映で美術監督の立場を経ていましたから、特撮というものに関しての経験値はとても高かったと思います。さまざまなジャンルの現場で、それぞれに求められる美術が違う仕事をしてきたので、その経験は円谷プロに行った時も非常に貴重だったと思います。35歳という年齢は若かったけれど、あくまでベテランとして呼ばれたんじゃないでしょうか。だから本人も、ウルトラシリーズに関しては責任を感じたと言っていましたし、気合が入っていたと思います」
成田が受け持った作業は、特撮美術に関することのすべてだったという。
「平均睡眠時間は3時間ほどだったようです。怪獣をデザインしたら造形の高山良策さんのところに自分の手で持っていく。『さっすが高山さん!スゴイな!』という時もあれば、父のイメージと異なる時もあったらしいです。そういう場合には、細部までチェックして色や質感の修正指示を出して、現場でのOK段階まで責任を持っていたと聞きます。デザインを描いた、あとはよろしく!ではなかったんですよね」
怪獣や特撮美術をイチから考え、カタチにするまでの行程を、すべてコントロールする作業量は尋常ではない。成田は後に「俺のやっていたことは、いまの映像作品でいうと“美術総監督”だった」と語っていたという。
「特撮のミニチュアセットをつくるときも予算がなかったから、決まった角度からしか撮れないセットをわざとつくったと言っていました。つまり、監督やキャメラマンが現場に入っても、父の考えたキャメラ割りでしか撮れないセットです。あちこちから撮ることができないセット。予算が限られているから、いかに先にイメージを固めるかが重要で、それで絵コンテを描いたりしたそうです。予算の勘定から現場の仕切りまで全部、ひとりの人間がよくそこまでやれたなと思います。若いスタッフが中心となるなかで、総監督の役割だったんでしょうね。ただ番組のクレジットでは『デザイン』や『美術』となっていました。父は当時、肩書にはまったく関心がなくて、『どうしますか』と言われても『なんでもいい』と答えていたようです」
左:「バルタン星人決定稿」1966年/セミ人間のスーツを流用し、手をハサミ状にするアイデアは本編監督によるもの。成田はセミ人間に鎧、兜の意匠を巧みに追加、ハサミを有機的に抽象化することで、そのイメージを劇的に変化させた。成田の高い造形センスが認められる一点だ。 右:「ゴモラ決定稿」1966年/戦国武将・黒田長政の大水牛脇立兜に着想を得た巨大な角が印象的な怪獣。中に入る人間の頭より上の空間をぐっと湾曲させて独特のシルエットをつくり出し、胴体の前面に配された突起物によってデザインが単調にならない配慮がなされている。
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そんな成田にとって、特撮美術のこだわりはなんだったのだろうか。
「父がこだわっていたのは『実写でやっているとしか思えないような映像をつくるのが、俺の特撮だ』と言っていましたね。特撮監督を手がけた東映の映画『新幹線大爆破』(1975年)では、カメラのすぐ横を新幹線が走り抜けるシーンがあって、観客は『スゴイ、こんなところにカメラマンが入って新幹線を撮ったんだ!』と思うんですが、実際は1mくらいのミニチュアが走っているわけです」
実写と見分けがつかない「特撮」というのはハリウッド的発想でもある。日本の特撮の多くは、たとえば怪獣の中に人が入っていて、ミニチュアの建物が壊されていく虚構性を視聴者が受けて入れている前提で、そうしたトリックの裏側も含めて楽しむところがある。だが、成田が目指したのは、それとは一線を画していた。
「ハリウッド作品と言えば、最初に日本で『スター・ウォーズ』が公開された時に、父に映画館に連れて行ってもらったんです。デス・スターの溝の壁の間を戦闘機が飛んでいくシーンは、『なかなかいいな!』と喜んでいましたね。この監督は俺と感性が合うなと言っていました(笑)。後になって思えば、ジョージ・ルーカスなんですけどね(笑)。でも『やっぱり日本じゃ、ここまではやれないなあ』とも悔しそうに言ってましたね」
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強い者が本気で闘う時は、ちょっと笑う。それがウルトラマンなんだ
成田亨の創作の原点とはなんだったのか。
「父は第二次大戦中に幼少期を送っていますが、頭の上を敵機が飛んでくることもあったそうです。怖くて逃げるよりも、目が離せなくてじっと見ていたそうです。戦闘機だけじゃなく、戦艦も見ていたし、巡洋艦も見ていた。祖父が船長として戦地に行っていたこともあり、そういうものを見るのが好きで、自分でも絵をよく描いていたそうです。そうした視覚から得た情報の中で、航空力学とか船舶技術における海洋力学のようなものを、勉強したのではなく芸術的感性として培ったのだと思います。ただ宇宙人に関しては、『この間、宇宙人と会ってなあ』なんてことは言ってなかったので(笑)、父の完全な想像、空想の世界を描いたものでしょう」
そしてウルトラマンのマスクのデザインも、成田亨というひとりの人生の経験の上に成り立っているという。
「父は、子どもの頃から『宮本武蔵』の本を読むのが大好きでした。武蔵がライバルの吉岡一門と一条寺下がり松で決闘をする有名なシーンがありますが、父がある時『浬、お前、武蔵が吉岡一門と闘う時、どういう顔をしていたと思う?』と僕に聞いてきたんです。『そりゃ、スゴイ気合入った顔なんじゃない?』と僕が言ったら、『俺はな、ちょっと笑っていたと思うんだ』と言うんです。『本当に強い人間は、本気で闘う時は、ちょっと笑うんだ。それがウルトラマンなんだ』と言ってましたね。ウルトラマンは口角がクッと上がっているでしょう。それは、強い者の笑いなんです。ウルトラマンの顔は初期のデザインから修正を加えていったけれど決まらず、『紙の上じゃダメだ、立体でつくる』ということになり、造形の佐々木明さんに人間の頭部の原型をつくってもらい、その後の一週間、今度は父がひとりでアトリエに籠り、試行錯誤してつくった。そうして立体物として仕上げたのが、ウルトラマンのマスクだったと言っていました」
そこには当然、芸術家として培った理論も投入されている。
「顔の造形的には人間の耳と鼻は美しくないので、鼻は省略して、耳もシンプルにする。人間の顔の造形でいえば、目尻のラインが耳の上に当たり、小鼻のラインが耳の下に伸びる。この芸術的に美しい顔のバランスは、ウルトラマンにおいても考慮されていますね。それにギリシア彫刻のアルカイックスマイルは美の典型と言っていましたから、その意識は最初からあったと思います。ギリシア彫刻が基本にしている、6頭身から7頭身のバランスもそうですし、筋肉の付き方とかポーズも含めて、力強さや勇気とか、いろいろな要素が入っている。父の話を聞くと、これまでの経験で蓄積してきた本当にさまざまな要素を入れながら、造形的には極めてシンプルな形を目指したのだと思います。最近よく言われている『弥勒菩薩がモデル』というのは完全な後付けでしょうけれど」
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父親としての愛情の深さや生き方は、作品にも込められている
成田亨は、家庭では普段どんな父親だったのか。浬さんのいちばんの思い出は、成田が序盤から参加した東宝製作のテレビドラマ『円盤戦争バンキッド』(1976年)のデザインだったという。
「その頃、僕は小学一年生で、自宅の庭越しに、父の仕事場としてプレハブが建っていたんです。ある日、僕が部屋から見ると、父がブキミ星人のデザインを描いていたんです。僕はさっそく仕事場に行って隣に座り、父が手を休めた時に紙を1枚もらい、使っていた同じ筆や絵具で自分も宇宙人を描いたんです(笑)。描き上げるたびに『お父さんのより、僕のデザインのほうがよくない?』と半分本気で遊んでいて、そんな僕のラクガキみたいな絵が50枚くらい溜まっていた。すると父は知らない間に『カイリ画集』として1冊のファイルにまとめて、番組のプロデューサーのところへ持っていき、どれか使えるのはないかと見せてきたらしいんです。そして家に帰ってきて『残念ながらプロデューサーは、お父さんのデザインの方がいいんだって』と言うんです。子どもの僕からしたら、大人として父が想像以上に真摯に対応してくれたわけで、それだけでも信じられない喜びでした。僕の画集はいまでも大切にしまってあります(笑)。この思い出は、忘れられません。優しい父親でした。うちにある、当時の初代ウルトラマンのマスクは目が割れていますが、あれは幼稚園の頃に僕が被って遊んでいて、割っちゃったんです。『ごめんなさい、割っちゃった』と謝りに行ったら、『形あるものはいつか壊れる。しょうがない』と言って全然怒らなかったんです。本当はとてもショックだったと思うんですけどね。父の人に対する愛情の深さ、生き方は、作品づくりにも深く込められていると思います」
左:「ダダ」1966年/錯視の原理を応用してデザインされた宇宙人。当初は見る角度によって顔が3パターンに変化するトロンプ・ルイユ的な効果が狙われていたが、造形的に難しく実現していない。全身の幾何学模様も当時最先端であったオプアートからの引用。 右:「ジャミラ」1966年/「中に人が入っている制約への挑戦」と成田が述べているように、人体のプロポーションを変形させ、意外性のあるフォルムを打ち出している。その斬新さ故であろう、当時の子どもたちはこぞって服を頭に引っ掛け「ジャミラ~」と遊んでいた。
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成田は手に障害を抱えていたが、その話が取り沙汰されることは少ない。成田が生後8カ月の時、青森県の自宅で囲炉裏の炭を掴んでしまい、左手に大火傷を負ったという事故が原因だった。以来、左手には障害が残り、それが原因でいじめにもあっている。その後、数度の手術を行ったが、手は自由に動くことはなかった。筆者は、生前の彼と親交を持たせてもらっていたが、「仕事を始めても左手のことは誰にも言わなかった。自分は障害にも、健常な人にも負けたくなかったんだ」と言っていたのが強く印象に残っている。だからこそ成田亨は、いつも弱い側に立っていた。
「左手のことは、ほとんどの人は気が付いていなかったと思います。人前では、いつも左手はズボンのポケットに入れていましたから。子どもの頃は戦時下だったので、自分も日本のために闘うという意識はあったみたいです。でも自分は左手が動かなくて、竹やりも持てないから、『自分は日本の力になれないんだ』と、凄く絶望感を感じたと言ってましたね。青春時代になると、日本一の名医だとか、最高の権威と呼ばれていた医者に手術をしてもらった。ところが何度、手術しても治らない。他の部位の筋肉を移植したので、そこにケロイドの傷が残ってしまっただけ。名医、権威、日本一とはなんぞやと、そういうものに対する憤りと怒りがあったようです。傷は火をつかんだ左手だけだったのに、治ると言われて治らなかったばかりか、移植手術で身体の他の部分にまで増えた傷、裏切られた心の傷……。自分の身体に人為的に傷が増えていくという経験が、弱者の側に立つという気持ちを、彼の中に育んでいったのかもしれないですね」
長年付き合いのあった筆者から見て、成田亨は芯がブレない強い人間という印象をもっていた。
「いや、強い人間ではなかったと思います。俳優になりたい、プロスポーツ選手になりたいと願い、努力して成就した人は沢山いるけれど、父は『俺には、絵を描いて生きるしかないんだ』と言っていました。強いのではなくて、それしかなかったんですね。左手のことが影響していたと思います。だからブレない。ブレられない。自分も、父と比べると、全然違います。生活をしていると、あれもしたい、これもしたいと思うわけじゃないですか。でも父には、あれもしたい、これもしたい、もなかったと思います。他に趣味もなく、ただ毎日、絵を描いている。仕事としては、お百姓さんと一緒かもしれません。毎日、やることがあるから、ひたすらコツコツそれをやっている。お百姓さんはそこが凄かったりするじゃないですか。父も毎日、絵を描くために調べて、絵を描くための知識を得て、絵を描くための道具を揃えて、絵を描いて、絵を入れるための額をつくって……。ですから逆に、幕田さんのようにライターという仕事でたくさんの人にお会いして、その時々でさまざまなチャレンジをできる人から見ると、ひとつのことを淡々と続けている父が強く見えるのかもしれないですね」
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いま、美しい海と空を描かないと俺は芸術家じゃない
美術の世界に生きた成田だったが、80年代になると、仕事で行った南洋に魅了されたという。
「父は、1980年に2時間ドラマ『太陽は沈まず~海よ!小さな戦士の歌を聞け~』の美術も担当していますが、劇中に登場する5mくらいのサメを庭でつくっていたんです。学校から帰るたびに、デカいサメができてくるんです(笑)。たまに『僕もやっていい?』と聞いて、アルバイトの男性たち3~4人に混じって粘土を盛る手伝いをしたんです。父は『カイリがやったとこいいなあ! さすが俺の息子!』と褒めてくれました(笑)。ようやく完成すると、それを持って南太平洋のトンガ王国に行ってしまった。3カ月のロケだったんですよ。帰ってきた時には、うちで飼っていた犬のカピが父だってわからなくて吠え立てたくらい真っ黒に日焼けしてました。そこから丸一年は、仕事を受けなかったですね。『俺は絵描きだ。いま、南太平洋の美しい海と空を描かないと俺は芸術家じゃない』と、毎日、南太平洋の絵ばかり描いていた。母は大変だったと思うんですけれども、次の年には新宿伊勢丹で『成田亨 南太平洋を描く』という個展を開催しました。絵描きとしての本懐に邁進する姿はとてもかっこよかったですし、楽しそうで幸せそうでした」
成田は、2002年に多発性脳梗塞で鬼籍に入った。遺骨は、数年前に南太平洋の海に散骨されている。
「トンガの海と雲が忘れられなかったんでしょうね。俺が死んだら、南太平洋に『還して』くれという願いでした。父が尊敬していた父親、つまり祖父は船乗りで第二次世界大戦の時には南方に行ってたということもありますし、僕の名前が『浬』というのもそうですし――海なんですね、父の中にあったのは」
北国の青森出身だから、余計に南の海に憧れたのだろうか。
「生後8ヶカ月で負った火傷のこともあり、子どもの頃にはいじめにもあい、なにかあると海に行き空を眺めていたそうです。北の海は黒くて風も冷たく、雲は重く垂れ込めていて、なんとも言えない寂しさも感じたことと思います。それに対して、南太平洋の陽気で明るいエメラルドグリーンの海と、空高く悠然と流れていく雲には、あまりの素晴らしさに心奪われたと言っていました。たまらなかったんでしょうね」
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『ウルトラマン』が放送されていた60年代は、科学や経済が発展し、飛躍しようとしていた時代であった。一方、『シン・ウルトラマン』が公開された2022年の現在は、科学や経済が人道よりも優先されてしまう時代とも言える。成田は、宇宙時代を描いたウルトラマンシリーズの美術監督ゆえに科学礼賛と思いきや、決してそれを「よし」とはしなかった。
「父は『このままいけば人類は科学と経済で滅びる。いまのように科学だ、経済だと言っていちゃダメだ』と言っていました。父は70年の大阪万博では『太陽の塔』の内部の『生命の樹』に、85年のつくば万博にも関わっていますが、当時中学3年生だった僕と僕の友達を連れて会場に行くと、科学の進歩を謳歌する展示を見ながら、こっそりと『愚かだろう?人間って』と言っていました。60年代から70年代は、日本が高度経済成長に踏み出して、経済的にも軌道に乗りかけた時期ですよね。その頃に『これじゃダメだ』と言っていたんです。『人間はこっちに行ったらダメなんだよ』と。そして大阪万博の直後、経済と科学に翻弄される人間をテーマにした『翼を持った人類の化石』という彫刻作品を制作しました」
コロナと戦争、ネット上の顔の見えない悪意。さまざまな問題が起きているのは、科学と経済優先の時代から、転換しようとしている時代の変わり目だからか――。そんなときウルトラマンは、再び弱い側に立つ存在となるだろう。成田にとって超人とは弱い側に立つ存在で、単純に悪いものをやっつけるヒーローではなかったに違いない。
「『シン・ウルトラマン』のタイミングで、成田亨という人間やその想いを見直してくれたら嬉しいですよね。父が生きていたらなんて言うかな」と浬さん。そして「父はいつも冗談を言っていた人ですから、きっと『新作ができるのは、そりゃ、もとのデザインがいいからだよ』と、にやっと笑ったでしょうね」と、懐かしそうに微笑んだ。
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