権力や古い国家観を象徴しない、異質な巨人・ウルトラマン
ウルトラマンとは何者か……? 思想家・人類学社の中沢新一が考察する。
身長40m、体重3万5000トン。初代ウルトラマンの設定だが、ではなぜ巨人なのか。それは、怪獣が巨大だから、それに対峙できる大きさの宇宙人としておそらく自然に出てきた設定なのかもしれない。ただ、巨人であるということは、人類史においては国家や権力とは切り離せない意味をもっています。
巨人の存在が認識されたのは、紀元前8000年頃、メソポタミアで農耕が始まってから。それ以前は人間の世界に巨人はいなかったようです。もちろん、人間は旧石器時代から神や精霊の存在を信じていましたが、彼らはもっと小さく、か弱いものでした。鋭い感覚をもち、人間になにかを伝えてくることもあるけれど、コツコツと小さな音を鳴らしたり、屋根に石などを当てたり、と控えめな態度だったようです。
しかし、農耕革命で富が蓄積されるようになって国家がつくられると、どこからか大声で人間に呼びかける存在が現れた。たとえば、王や占い師の夢に巨大な何者かが出てきて耳が張り裂けんばかりの声で命令する。それを民衆に語り、人間は強力な意思をもった神の声として聞く。王の言葉は神の言葉なのです。そうなると意識の構造が変わってきてしまう。
やがて預言者ゾロアスターなど一神教の神が出現し、西洋文明でも国家と神が一体になっていきます。一神教の神はたいていは人間よりも大きいのですが、巨人的な神と権力が結びつく世界には理不尽さが常にあります。つまり、巨人とは人間が国や王をもち始めた時に形成された古い国家観の象徴だったのです。
---fadeinPager---
ナウシカの巨人兵や進撃の巨人と、ウルトラマンとの違い
アニメや特撮の物語で巨人はどう描かれてきたかというと、やはり圧倒的で理不尽な存在でした。たとえば、映画『風の谷のナウシカ』にも巨神兵という巨人的な存在が出てきます。巨神兵は文明のつくり出した過剰な力の象徴で、大国トルメキアは武力でその力を飼い慣らそうとしています。一方で、ナウシカが住む風の谷は理想的なデモクラシーですよね。しかも人間だけでなく、動物も自然も平等だという世界です。ここには、宮崎駿さんの戦後民主主義的な理想がよく現れているのでしょう。
『進撃の巨人』の巨人もまた典型的な理不尽です。主人公たちは城壁を壊して、迫ってくるわけのわからないものと戦い続けなくてはならない。古代の人の夢に出てきた巨大な何者かと同じ存在です。
しかし、巨人としてのウルトラマンとはなにかを考える場合は少し複雑になります。シリーズの原点となった「ウルトラQ」では、大きな怪獣と人間たちが戦う。ですが、「ウルトラマン」では巨大な宇宙人が戦ってくれるので、考えてみれば面白い。敵を追っている最中に間違えて人間を殺してしまったから負い目があるようで、人間のために尽くそうとする巨大な存在として現れた。ウルトラマンの言動からは権力的なものは感じられません。宇宙的デモクラシーと言えるかもしれない。
しかも、怪獣は本当のところは悪者ではない。放送当時は高度経済成長期で、自然破壊によって環境が崩れていくことが大きな問題になっていた。それまで保っていた人間と自然のバランスに裂け目ができて、吹き出してしまったような存在として怪獣は描かれている。怪獣を生み出したのは人間。だから、ウルトラマンの敵は、本来は人間とも言えるでしょう。
にもかかわらず、人間には好意をもっている。非常に矛盾した存在です。だから、怪獣と戦ってはいるけれど、完全に倒したいわけではなく、引っ込んでもらうための儀式というか、プロレスをしているように見えることもある。
『シン・ウルトラマン』の「シン」には、さまざまな意味が込められているようですが、つまりは解釈を変えていくということ。時代背景が変わると、そこに描かれた意味も変わっていく。新しいシチュエーションに対して、新しい意味が発生してくるのが名作です。
世界は複雑で矛盾していて、これからの時代はヒーローとヒールの対決だけで物語は成立しない。「ウルトラマン」の主題でもある正義というものを、みな疑うようになっている。でも、ウルトラマンはもとから複雑な存在として生まれたのだから、いまの時代に合ったさまざまな新しい解釈が生まれてくるのでしょう。
中沢新一
思想家・人類学者。1950年、山梨県生まれ。多摩美術大学芸術人類学研究所所長、明治大学野生の科学研究所所長などを歴任。著書に『チベットのモーツァルト』『森のバロック』『アースダイバー』など多数。2016年第26回南方熊楠賞(人文の部)を受賞。
※この記事はPen 2022年6月号「ウルトラマンを見よ」特集より再編集した記事です。