日本の伝統文化の代表、茶道。多くの日本文化と同じように、中国にルーツのあるカルチャーですが、そのことが語られることはほとんどありません。また、現代的な解釈がなされることも稀です。そんな茶道が、どのような過程を経て日本文化としてのオリジナリティを獲得し、時代や流行に合わせて進化して来たのか。「日本の伝統」という言葉に縛られない茶道のルーツとは。海外のアートとの接続やワークショップなど、型に囚われない活動を展開する宗徧流11世家元、山田宗徧が解き明かします。
「利休が侘び茶を大成した」と教科書に書いてあるように、日本の伝統文化の代表のように言われることもある茶道。
日本的な感性として「わびさび」という表現が使われているが、本当のところはよくわからない。それなのに知らないと、なんとなく恥ずかしい思いがする。そんな素朴視点で茶道について書かれたものはあまりないし、「大成した」でうやむやにされるのもなあと感じていました。そんなところ、機会を頂いたので、侘び茶の大成とは何かについて私論を書いてみます。
私は宗徧流という茶道の流儀の家元です。20歳の時に父が亡くなり、あとを継ぎました。その頃は音楽、ファッション命で生きていて、アートに興味が出始めた頃です。茶道の家には生まれたものの、この道についてはほとんど知りませんでした。自分の感覚で話して、「茶道がわかっていない」と言われることもしばしば。実は、いまでも茶道の常識と違う自分の感覚をコントロールすることが難しいと感じることがあります。ですからこの連載をとおして、茶道の常識に疑問を投げかけ、創造性の命を蘇らせていきたいと考えています。
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古くからの国際都市としての鎌倉
樹木希林さんがお茶の師匠を演じた『日日好日』という映画があります。「見ました?」ときかれることがたまにあるので、ああ、あの映画で描かれているお稽古ごとが、今の茶道イメージど真ん中という感じなんだな、と感じています。では、本当に茶道はずっといまの形だったのか? 意外かもしれませんが、女性の稽古ごとになったのは、明治以降のことなんです。意外でしょう?
では、茶道そのものの始まりはいつなのか。これは、鎌倉時代が「正解」です。
実は、今私はその鎌倉に住んでいます。古都鎌倉などと言われるけど、イタリア料理屋の方が和食屋より多い、和よりも洋文化の方が多い町。最近はコロナで自然を求めて移住してくる、新しい住人も多いです。文化とはこうやって混じり合っていくもの。
大河ドラマや時代劇を見ていると、昔の人は和文化だけの中で暮らしているように描かれているけど、実際には海外の文化も取り入れられていたはず。では、当時の日本人は、海外の文化をどう思っていて、生活に取り入れていたのでしょうか。
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グローバルエリートが持ち込んだ文化
その例を鎌倉幕府三代将軍・源実朝と、その時代の禅僧・明庵栄西の関係から見ていきます。
勉強熱心な栄西さんは、仏教の神髄を求めて中国に渡りました。いまなら、さしずめハーバードへ留学するようなものですね。当時の中国は「宋」という王朝が栄えていた時代。この宋について知っている人はほとんどいないと思います。
日本人なら大体知っている、小野妹子の遣隋使につづく遣唐使の「唐」と、元寇の「元」の間の時代です。現代中国人にとっては文化が栄えた理想の時代で、日本人にとっての平安時代のような感覚でしょう。たとえば中国で家具を使いだしたのはこの宋の時代で、モダン家具で有名なウェグナーのYチェアも、源流を探すと、宋時代の家具を写した明時代の家具なんです。宋の時代精神がいかにモダンだったか、わかりますよね。
栄西は、その宋に二度渡り、仏教だけでなく文化を吸収して持ち帰ってきました。いまの宗教感覚で、いちお坊さんとして栄西を見ると実像が見えなくなるのですが、当時の日本や中国においては、お寺が大学のような最高学府でした。中国には留学僧もいましたし、日本人にとって仏典は外国語でした。外国留学を目指しているくらいだから、相当なグローバル感覚ある人が、お坊さんだということです。
彼らは語学ができるため、室町時代になると、外交官としての役割も担うようになります。
「元亨釈書」という歴史書には、栄西一門の衣装が異様であるという当時の人の記述もあります。宋風のファッションも取り入れたり、思想、アート、建築‐デザイン、食、テクノロジーなど、栄西は宋文化の最新動向を一人で持ってきた人だったようです。
実朝の父、頼朝の一周忌法要の導師を頼まれるなどもしていたそうですから、母である北条政子に気に入られていたのだと思います。政子は最高権力者の妻として、京の王朝文化へのカウンターとして、サムライ独自の新たなカルチャーをつくるべく、栄西から最新の南宋カルチャーを吸収したいという思いが強かったのだと思います。
日本にはないテクノロジーや素材を駆使してつくられた宋の文物は、エルメスが世界のご婦人の心をとらえて離さないという以上に、もしくはフェラーリが男の夢をかなえるように、日本の権力者たちのあこがれ、夢であり、マウントを取るにふさわしいものだったのです。そして、そのひとつが、茶道でした。
さて、次回は、宋の茶文化について、もう少し深掘りしてみたいと思います。どんな人が、どんな位置付けでお茶を飲んでいたのか。現代にたくさんあるコーヒーロースターやチョコレートドリンク店との以外な共通点とは? お楽しみに!
茶道宗徧流 11世家元
1966年、鎌倉生まれ。上智大学在学中の21歳の若さで、父の去にともない宗徧流十一世家元を継承。同年南禅寺で得度を受け、幽々斎の号を授かり、1990年24歳で十一世宗徧を襲名。現代的な感性で現代美術や映像、都市文化への造詣が深く、ベルナルト・ベルトルッチやピナ・バウシュ、ロベルト・マッタの来日時には茶室に招き、交流を持つ。著書に「宗徧 イップクイカガ」 2000年レゾナンス 、破壊 の流儀 不確かな社会を生き抜く“したたかさ”を学ぶ (2010年アスキー新書)
1966年、鎌倉生まれ。上智大学在学中の21歳の若さで、父の去にともない宗徧流十一世家元を継承。同年南禅寺で得度を受け、幽々斎の号を授かり、1990年24歳で十一世宗徧を襲名。現代的な感性で現代美術や映像、都市文化への造詣が深く、ベルナルト・ベルトルッチやピナ・バウシュ、ロベルト・マッタの来日時には茶室に招き、交流を持つ。著書に「宗徧 イップクイカガ」 2000年レゾナンス 、破壊 の流儀 不確かな社会を生き抜く“したたかさ”を学ぶ (2010年アスキー新書)