自分にとって安心感のある“いつもの服”を脱ぎ、“新しい服”を手にする意味とはなんだろうか?
コム デ ギャルソンやルイスレザーに惚れ込み、ファッション通としても知られるノンフィクションライターの石戸諭が、自らの体験をもとに考えた。
さほど気になることはなかったのに、なぜだか突然気になってしまう服がある。
この春、僕にとってのそれはフォレスティエールということになるだろう。その昔、パリ左岸を代表するブランドとして、右岸のエルメスと並び称されたアルニスが世に送り出した逸品である。あるファッションエディターとの雑談でこんな話を聞いた。アルニスそのものの姿は大きく変わってしまったが、国立西洋美術館などで知られる建築家、ル・コルビュジエが注文したという伝説ともあいまって、いまでもファンが多いというものだ。
オリジナルの特徴はきれいなスタンドカラー、シンプルに配置された3つのポケット、ややゆったりとしたシルエットで、動きやすさを重視してか袖幅も広めにとっている。シャツとネクタイを合わせてもいいし、喉元まできっちりとボタンを閉じればノータイでも違和感なくキマる。クラシックかつエレガントな雰囲気を残しつつ、カジュアルな着心地も約束されている。一見すると相反するような要素を、一着の中で絶妙に調和させているところに惹かれ、この服を着て、仕事をしてみたいと思ってしまった。僕の場合で言えば、よっぽど格式高い場所でなければ取材でも使えるし、大抵のシーンと調和してくれそうだ。しかも、手もちにはない強い個性を備えたジャケットでもある。
メンズ服の世界で、テーラードジャケットは偉大な完成形のひとつだ。ある側面から見れば最先端を更新するモードの歩みとは、テーラードへの挑戦の歩みでもある。解体を試みたり、シルエットを大胆に変えたり、肩やラペルといったディテールで差をつけてみたり、異なる素材を一着の中にミックスさせたり、ブランドの定番をつくってみたり……。新しいクリエイティブのヒントは、常に歴史にあることを彼らは示している。フォレスティエールもまたアルニスの挑戦の産物だ。彼らは完全に新しいジャケットをつくり出した。
名作をアレンジし、誰も見たことがない一着に
僕のフォレスティエールも、オリジナルをそっくりそのまま再現するだけなら単なるコピーに過ぎず、芸がない。やはりチャレンジは必要だろう。そこで外苑前のテーラー「ラウドガーデン」の店主、岡田亮二さんとともにオリジナルへの敬意を払いつつ、誰も見たことがない、現代的な解釈を施した一着を目指すことにした。変化を取り入れた箇所は大きく分けてふたつある。
第一にシルエットだ。ゆったりとしたシルエットは僕の体型には合わないので、細身のすっきりしたラインに変え、ウエストも袖もきっちり詰めることにした。街着としても着用でき、同時に品格も残す。これだけで、よりスポーティかつ都会的な印象に変わったように思う。
第二にベースの生地とディテールだ。生地はイギリスが誇るハリソンズのタータンチェックコレクションから、パープルウォッチをチョイスした。本家はツイードのような秋冬用のウール素材が使われることが多かったようだ。おそらく、この生地でフォレスティエールをつくった人は未だかつていないだろう。
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〝人生〞の先が見えてくる「35歳問題」
気に入ったのはロックなテイストを加えつつ、本物のタータンでしか表現できない上品さも残したことだ。袖のエルボーパッチやバックベルトは、タータンをバイアスカットした共地にする。そして、パッチポケットの縁取りやターンナップカフスには、ラウドガーデンオリジナルの遠目には黒の無地、近くで見るとハートが織り込まれているスーツ地を使ってみた。凝ったブラック生地は華やかさとともに、引き締まった印象をもたらす。せっかくなので、岡田さんに頼んでアンティーク調のメタルボタンを探してもらったところ、ピカピカした質感ではなく、光沢のないブラック調のボタンが見つかった。ちょっと使われたような雰囲気があって、これもまた素晴らしい。あとは完成を待つばかりだ。
それにしても、と思う。新しい服に袖を通すことは、新しい自分に出会うことである、と。人間の性格や生き方を根本から変えることは難しくても、着替えることで新しいなにかが見えてくることがある。僕も〝新しい〞ことを求める時期に差し掛かっている。
哲学者にしてゲンロン創業者の東浩紀さんと一緒に『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ)という本をつくった時に、「35歳問題」が話題に上った。問題を僕なりに整理するとこうなる。人の一生は選ばなかったことの連続だ。もしあそこで……という悔恨を抱える人もいれば、選んだことの幸運に感謝する人もいる。35歳を中心にして前後5年くらいの間に、多くの人はどこかで〝人生〞の先が見えてくる。それを「安心や安定ととるか、それとも停滞ととるかはひと次第です」と東さんは書いている(【#ゲンロン友の声|022】「35歳問題」について教えてください)。
30代半ばまで社員記者をやっていた時の僕が、まさに直面していた問題だった。新聞記者からインターネットメディアの記者に転じたが、どこに行っても自分なりのポジションがあった。よほどの失敗がない限り、複数の選択肢の中で、なにかしら望んだポストに就任するという将来も確実にあった。多少の妥協をすれば、安定的に記事を出し、時々はインターネットで話題になってシェアされ、仕事とプライベートのバランスが取れた安定的な人生を送れたとは思う。その一方で退屈さを感じていたのも事実だ。毎日が同じことの繰り返しのように思え、先が見えてしまうことが嫌だった35歳の僕は、職場を飛び出せばこの問題が解決できると思っていた。でも、環境を変えただけではダメだった。
新しいジャケットを仕立てるのは、自分自身に変化を生み出すため
独立してから、最初に自分に課したルールはまず仕事は断らないことだった。とりあえずなんでもやってやろうと思った。どこでもそんなことを語っていたからか、面白い仕事の依頼はいくつもやってきて、目一杯こなすことで結果もついてきた。それでも、僕には自分が成功しているという感覚はほとんどと言っていいほどなかった。記事が掲載された瞬間、本を書き上げた瞬間は、確かに嬉しさがある。全力を出し切った感覚とともに、これでやっと一段落できると思うのだが、それでも次の仕事に向けて動かなければいけないと思う自分がいる。独立してからの3年間はその繰り返しだったが、それもまたひとつのサイクルに入ってしまったように思えるのだ。つまり、いまの僕は〝停滞〞と紙一重のところにいる。守りに入ればいつまでかはわからないが、多少の安定は手に入れることができるだろう。だが、それだけに過ぎない。
いまの僕は変化を望んでいる。この3年間でやってみたいこともずいぶん増えた。そんな時期に、まったく新しいジャケットを仕立てるという発想は我ながら悪くないと思っている。新しい自分に出会うために仕立てたフォレスティエールに着替えた時、きっと僕は次のなにかに向けた取材に出かけているはずだから。
石戸 諭(いしど・さとる)●1984年、東京都生まれ。ノンフィクションライター。大学卒業後、毎日新聞社入社。2016年にBuzz Feed Japanへ移籍、18年独立。21年、「『自粛警察』の正体」(文藝春秋digital)で第1回PEPジャーナリズム大賞受賞。おもな著書に『東京ルポルタージュ』(毎日新聞出版)がある。
※この記事はPen 2022年5月号「いま欲しい93の服と小物」特集より再編集した記事です。