NYファッション界のレジェンド、 ビル・カニンガムの本と 青いフレンチ・ワークジャケット

  • 写真&文:小暮昌弘
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左:昨年発行された『ファッション・クライミング ビル・カニンガムのファッション哲学、そのすべて』(ビル・カニンガム著 渡辺佐智江訳 朝日新聞社刊)。右:その原書の『Bill Cunningham Fashion Climbing』(Penguin Press)。紹介にはニューヨークのレジェンドの語れなかった物語とある。

昔から本は“積読”のほうだった。某大手通販サイトで古本までポチッとできるようになってからはなおさらのこと。気になる本はとりあえず購入しておき、部屋の隅に何冊も積んだままにしておく。それで読んだ気になっている本もあるが、これはぜひとも読みたかった本だ。『ファッション・クライミング』(朝日新聞社刊)。著者はビル・カニンガム。2010年に公開された彼のドキュメンタリー映画『ビル・カニンガム&ニューヨーク』は大好きな映画のひとつで、何度も観ている。

ご存知の方も多いと思うが、彼は1970年代からニューヨーク・タイムス紙で「On The Street」と「Evening Hours」という人気コラムの執筆までする名物カメラマン。本の腰巻にはかの三宅一生氏が「彼に撮られることが、ニューヨーカーのステータスだった!」と書く。Penguin Pressからアメリカで発行された原書は2018年に発行されたことを知り、すぐに入手したが、その訳本が昨年発売されたので、すぐに購入。“積読”の一冊になっていたが、最近、一気に読んだ。

本に書かれているが、タイトルである「ファッション・クライミング」とはファッションで立身出世を狙う行為のことらしい。これは1930〜40年代にニューヨークで流行した立身出世を狙う行為を意味する「ソーシャル・クライミング」に由来する。王族も貴族もいないアメリカで「唯一可能な区別となるのがファッションだった」と書かれているが、彼がファッションに目覚めた当時は、いま以上にアメリカでファッションが重要視されていたのだろう。

1929年にボストン郊外の町で生まれ、ハーバード大学に入学するもファッションに興味をもち、中退してしまったビル。ニューヨークに移り住んでからは、当時の有名百貨店ボンウィット・テーラーに勤め、ついには帽子をデザインするようになり、デザイナーとして独立し、ブティックを構えるまでになる。しかし、朝鮮戦争に兵役に就いた後は、ファッションジャーナリストに転身し、自らカメラを手に、前述の新聞で名物コラムをもつまでになり、多くのファッションショーやストリートで写真を撮っていた。この本はそんな彼の自伝だ。残念なことに彼は2016年7月に87歳で亡くなるが、タイプライターを使って書いたもので、生前は公になることを避けていたとも書かれている。

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ビル・カニンガムの生写真。私は会うことは叶わなかったが、2015年に愚息がニューヨーク・コレクションでビルに遭遇。トム・ブラウンのプレゼンテーション会場近くでのものだが、この時も例の青いジャケットを着ていた。

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これも2015年に愚息が撮影したもの。ニューヨークのデザイナーのトッド・スナイダーのショーで。ショーではランウェイの正面ではなく、横が彼の定位置。モデルだけでなく、ショーを観ている人を観察、撮影するからだ。

ファッションの業界紙として知られる『WWD(ウィメンズ・ウェア・デイリー)』で彼は初めて記事を書く時に、ビルが自分で誓ったことがある。それは「デザイナーとそのコレクションについて嘘をつかない。お世辞を述べない」ということ。ビルはニューヨークだけでなく、パリやミラノなどのファッションショーやパーティをよく取材していたが、プレゼント等は一切受け取ることなく、パーティに招かれても食べ物に口をつけることはないと映画で語っている。さらに本書では「私はファッション関係の報道の9割を占める嘘偽りに加担することはできなかった」とも書く。いやぁ、厳しい指摘ではないか。彼はファッション以外のことに興味がなく、50年暮らしたカーネギーホールの上にある自室にはキッチンもクローゼットもなく、取材旅行もすべて自前だったと聞くから、その徹底ぶりに驚く。

私もパリ、ミラノ、ニューヨークと何度もファッションショーを見ているので、彼に遭遇しているはずなのだが、まったく記憶がない。彼の存在、このドキュメンタリー映画のことをもっと早く知っていれば、ぜひとも取材したかったと思う人物である。彼がいつもスナップしていた57丁目と5番街が交わる交差点は「ビル・カニンガム・コーナー」と正式に命名されているそうで、今度ニューヨークに行く機会があったら、彼がどんな景色を観ていたか、同じ場所に立ちたいとも思っている。

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友人のN氏から託されたフランス製のワークジャケットは私の宝物。昔の人なら“上っ張り”と呼ぶような一枚仕立てのシンプルなデザイン。丸みのある襟のデザイン、紫がかったブルーの色合いはフランスならでは。

そんなビルがいつも着ていたのが、青いワークジャケットだ。映画で描かれているが、その上着はパリの「BHV(ペーアッシュヴェー)」で購入したもの。パリ市内で清掃などを行う人たちが着用している上下揃いの作業着=ユニフォームで、その上着をずっと着ている。1980年代に2度目のパリに行ったときに、私もマレ地区にある「BHV」に行き、店頭にうずたかく積まれた青のジャケットやパンツを見ている。

当時はBHVは、パリの東急ハンズともいえるような品揃えで、青のジャケットは買わなかったが、所属していた雑誌の名前でナンバープレートを何枚かつくってもらい読者プレゼントした記憶がある。あの時見た青のジャケットを着て、いつも自転車でニューヨークのファッションウィークを駆け回っていたのだ。映画ではパリのカフェに入ったビルが「安いコーヒーほど、美味いものない」と笑う。青いジャケットも安いパリのコーヒーも、彼の生き様を象徴している気がする。

私もフレンチワーク風のジャケットは大好き。アメリカ製のワークジャケットとはまったく違う味わいがあり、羽織るような着用感がたまらなく好きなのだ。何枚か手元に残して時折着ているが、これはビルが亡くなった翌年に突然天国に行ってしまった友人N氏からの形見分けにいただいたもの。

彼とは20代からの付き合いで、インポート系ショップのプレスとして活躍した人だ。アメリカからイギリス、イタリア、フランスのファッションまでとにかく早く、詳しかった。しかも社交的で、上野や銀座、遠くロンドンのパブならぬ居酒屋で、深夜までファッション談義をした覚えがある。このワークジャケットも彼はそうとう好きだったらしく、同じサイズのものが何枚も未着用のまま遺されていた。それを譲ってもらったのだ。フランス製で、「SOLIDA」というブランドのもの。70年代にはフランスで販売されたらしいが、ネットで調べてもその詳細はよくわからない。タグが付いたまま残されていたので、ずっと着ることなく、何年もクローゼットにしまっておいたが、服好きの彼のこと、「着てよ!」と言ってくれるだろう。今年はぜひともこのジャケットに袖を通してみようと思っている。

小暮昌弘

ファッション編集者

法政大学卒業。1982年から婦人画報社(現ハースト婦人画報社)に勤務。『25ans』を経て『MEN’S CLUB』に。おもにファッションを担当する。2005年から07年まで『MEN’S CLUB』編集長。09年よりフリーランスとして活動。

小暮昌弘

ファッション編集者

法政大学卒業。1982年から婦人画報社(現ハースト婦人画報社)に勤務。『25ans』を経て『MEN’S CLUB』に。おもにファッションを担当する。2005年から07年まで『MEN’S CLUB』編集長。09年よりフリーランスとして活動。