【2021年、感動したこと】アレサ・フランクリンの評伝映画『リスペクト』と『BAD BLOOD シリコンバレー最大の捏造スキャンダル 全真相』

  • 文:速水健朗
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現在公開中の映画『リスペクト』(監督:リースル・トミー 出演:ジェニファー・ハドソンほか 配給:ギャガ)。© 2020 Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All Rights Reserved.

今年、印象に残った本、映画を一作ずつ。

本は、セラノス事件を告発したジャーナリストによる調査報道の『BAD BLOOD シリコンバレー最大の捏造スキャンダル 全真相』。映画は、アレサ・フランクリンの評伝映画『リスペクト』。

セラノスは、シリコンバレーの医療系テクノロジーのスタートアップ企業として注目を集めた。微量の血液から疾病リスクを判定するのだが、カード型のカートリッジを使ってあらゆる疾病リスクを判定するというサービスが注目された。カートリッジのデザインもブランドロゴや宣伝の方法もクールでスタイリッシュ。だが、マイクロ流体力学を利用したデバイスはうまく動かなかった。血液のデータ鑑定の精度も話にならないほど低かった。急いで考えたプランBは、注射器で採取した血液を外部の施設に送って検査するというもの。これだとセラノス独自の要素もイノベーションもない。成功のチャンスはどこにもなかったのでは。

それでも、イノベーションの専門家のマット・リドレー(『人類とイノベーション: 世界は「自由」と「失敗」で進化する』 大田直子訳 NewsPicksパブリッシング)によると、シリコンバレーでは当たり前のことだという。発表時は、未到達のテクノロジーだったとしても、投資家たちから資金を集めてパーティーをしている間に、マイクロチップの計算力や周辺の技術が底上げされる(ムーアの法則)。ローンチまでに間に合えば合格というのがシリコンバレー流なのだ。ただ、セラノスの場合、疾病が見逃され、手遅れになる人が出る可能性がある。人の命が関わる分野だったから見過ごされることはなかった。

セラノス事件で圧倒的に注目されたのは、創業者で“女ビリオネア”と呼ばれるエリザベス・ホームズ。彼女は、ジョブズを真似て年中黒いタートルネックセーターを着ているので有名。それを貫くため、夏も部屋に冷房をかけてセーターを着ていた。彼女のパートナーで共同経営者兼出資者であるサニー・バルニワもホームズおよびセラノス事件全体の混乱の張本人ともいえる重要な人物だ。彼は、膨らんだ袖の白シャツのボタンをいつも第三ボタンまで開け、霜降りデニムに青いローファーという姿で超高級スポーツカーで職場に通っていた。成功者のコスプレをしていたのだ。周囲の人々は、ふたりのファッションの奇妙さだけで事態に気が付づいてもおかしくなかったと思うがどうだったのか。

本書の著者、ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)の記者ジョン・キャリールーは、セラノスの技術に疑問を抱くが、そう簡単には進まない。相手はシリコンバレー最強の弁護団を雇っており、元社員たちも守秘義務違反で縛られ、証言をしてくれない。元国務長官のジョージ・シュルツ(2021年死去)をはじめとした大物たちは、セラノスの実態を知ってもホームズを支援していた。

社内からの応援もない。少人数のチームで動き、情報が漏洩しないようにことを進めたから。それだけではない。セラノスの創業者エリザベス・ホームズは、シリコンバレーの有名人でWSJ主催イベントの登壇者でもあった。社内で潰されてもおかしくない状況。それでも告発ができたのは、報道部署の独立性があったから。アメリカは、まだこうした調査報道の良心を手放していなかったということ。とはいえ、それも紙一重。そのあたりがスリリング。

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『BAD BLOOD シリコンバレー最大の捏造スキャンダル 全真相』(ジョン・キャリールー 集英社)

一方、2021年の映画ベストは『リスペクト』。アレサ・フランクリンの評伝映画。1960年代の公民権運動を背景に、少女の時代、父との関係、結婚、暴力、酒酔いの末の転落事故などの波乱に満ちた半生を描く。

原作となった評伝を読むと、いくつか脚色が加わっていることがわかる。先輩の大御所歌手ダイナ・ワシントンが自分の持ち歌をアレサがステージ歌おうとした瞬間にダイナがテーブルをひっくり返す映画の場面。評伝では歌手のエッタ・ジェイムズの身に降り掛かったエピソードとして描かれている。映画では、ダイナの強烈な“エゴ”に、アレサは自分の“個性”の足りなさに気づく重要なシーンとして転用されている。脚色のアイデアが光る。

評伝には、映画にない複雑な背景も登場する。ダイナ・ワシントンは、“ブルースの女王(日本だと淡谷のり子のふたつ名だが)”と呼ばれる存在で、アレサは子どもの頃から家に出入りしていた。実はアレサの父親の元カノであり、そして最初の夫の元カノ。こういうのも家族ぐるみの付き合いというのだろうか。

さて、この映画のハイライトは、まだ売れなかったアレサが代表曲『リスペクト』をスタジオで録音するシーン。はじめてソウルフルな歌い方に挑戦する。だが、マネージャー兼夫だったテッド・ホワイトは機嫌が悪い。田舎のスタジオで集められたプレイヤーたちがみな白人だから。そこからの騒動は、評伝のまま描いている。彼らの演奏に初めてグルーブを感じたアレサは、ようやく自分の個性が詰まった最高の楽曲をものにする。

ジャーナリストによるシリコンバレーの内幕とミュージシャンの評伝映画。重なる部分はある。どちらも膨大な量の取材が背後にある。

アレサの評伝映画は、主演のジェニファー・ハドソンをアレサ本人が公認するくらいだからアレサの許可を得ているようなもの。だが、もとになっている評伝は、やや複雑な経緯で生まれている。著者は、アレサの自伝の作家でもあるが、彼女が書くことを許さなかった部分を大量に抱えて往生したという。そこで、別の本というかたちで、膨大な周辺人物、音楽関係者への取材でアレサの半生記を評伝として書き直した。ミュージシャンの評伝もまた調査報道の一種なのだ。

来年、2022年も、よい本、映画に出合えますように。

速水健朗

ライター、編集者

ラーメンやショッピングモールなどの歴史から現代の消費社会をなぞるなど、一風変わった文化論をなぞる著書が多い。おもな著書に『ラーメンと愛国』『1995年』『東京どこに住む?』『フード左翼とフード右翼』などがある。

速水健朗

ライター、編集者

ラーメンやショッピングモールなどの歴史から現代の消費社会をなぞるなど、一風変わった文化論をなぞる著書が多い。おもな著書に『ラーメンと愛国』『1995年』『東京どこに住む?』『フード左翼とフード右翼』などがある。