銀座は、言わずと知れた世界的都市であり、美食の街でもある。なかでも特別感ある並木通りの一角、ビルの9階にあるのがフランス料理店「ESqUISSE(エスキス)」。著者のリオネル・ベカは、そのレストランのエグゼクティブシェフである。
2006年に来日したリオネルは、いまに至るまで15年以上を日本で過ごしている。業界でも三角形のトップにいる彼ほどの料理人が、本書の中で、米を添えた料理の写真とともに「日本人のように米を炊くこと、そこに至るまでに膨大な時間と勇気が必要だった」と書いている。前書きでは「日本という国は私の視点、仕事の仕方、考え方を形にする手法の全てを180度変えました」と語っている。
そんな謙虚で思慮深い彼が、15年の中で蓄えた日本への思い。感謝。
これは、彼の中で静かにも爆発しているそうした気持ちを、非常に奥深く根深いところから、言葉を選んで綴った、そして料理として皿の上に表現した、まさに哲学書のような文字と写真の本である。
料理は、生きたものの命を絶った上でしか成り立たないという、どこかパラドックス的な要素を持つ。おそらくは、そのジレンマを常に心に抱えるリオネルにとって、日本で学んだ、残酷でありながらも美しい所作の魚の扱いや、神経締めに代表される、命への尊厳を感じさせる手法は特に感慨深かったのではないだろうか。本の中には数枚、血生臭い写真も登場する。
また、器も含めた生産者への感謝も深く語られ、充実した表情をした人物の写真が載せられている。日本各地を旅しているリオネルの心に刻まれた風景も登場する。
驚くのは、こうした写真(料理写真以外)がリオネル本人の撮影によるということだ。彼の視点が視覚的に表されることで、彼の心と感じる日本が、より一層の立体感を帯びて伝わってくる。
祖国フランスが自分の感覚の中で小さくなり、やがて記憶の中でしか生きられないものとなったいま、その代わりに、やっと日本が母として自分を受け入れてくれた。しかしいつまで経っても養子でしかない。だが、自分の中に日本とフランスという2つのテロワールを共存させ、第3のテロワールを引き出そうと試みている、とリオネルは語る。そしてその体現が料理であると。
巻末で彼は、惜しげもなく本に出てきた料理のルセットを公開している。ただ、本をここまで辿った人は分かるはずだ。ルセットから学べることは多くとも、ここまで魂の入った料理を同じように再現できるわけがないのだ。ルセットは、宝ではないと気付かされる。宝は、それを生み出した人の心、つまりその人自身に他ならない。
本書を読み尽くした上で、久々に「エスキス」を訪れた。料理を難しく食べる必要はないと思うが、リオネルの作る皿の上に、「リオネル」というテロワールを感じ、ページをめくるようにその先に広がる人々とストーリを思い起こす喜びを味わった時、ここでの時間は今までの何倍も充実したものとなっていた。
Lionel Beccat(リオネル・ベカ)●フランス、コルシカ島生まれ。南フランスのマルセイユで育ち、20歳を過ぎて料理の世界に⼊る。1997年からミッシェル・トロワグロのブラッスリー「ル・サントラル」、ミシュラン一ツ星レストラン「ギィ・ラソゼ」「ペトロシアン」で研鑽を積む。2002年より三ツ星レストラン「メゾン・トロワグロ」でスーシェフを務める。2006年、ミッシェル・トロワグロより、東京にオープンの「キュイジーヌ[s] ミッシェル・トロワグロ」シェフに任命され来日。2011年、フランス国家農事功労賞シュヴァリエ授勲。2012年、「ESqUISSE」 エグゼクティブ シェフ 就任。以来継続して「ミシュランガイド東京」に二つ星で掲載される。2018年、Gault&Millau 「今年のシェフ賞」受賞。