「利他学」を立ち上げ、 いまの社会や科学技術のあり方を考え直す【Penクリエイター・アワード 伊藤亜紗】

  • 写真:興村憲彦
  • 文:今泉愛子
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伊藤亜紗●1979年、東京都生まれ。東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長。同リベラルアーツ研究教育院教授。生物学者を目指していたが、大学3年次に文転。2010年、東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程単位取得退学。専門は美学、現代アート。http://asaito.com

Pen クリエイター・アワード、2021年の受賞者がいよいよ発表! 今年は外部から審査員を招き、7組の受賞者が決定。さらに審査員それぞれの個人賞で6組が選ばれた。CREATOR AWARDS 2021特設サイトはこちら。

いま、クリエイターや起業家から熱い注目を集めている研究者がいる。2020年、東京工業大学が開設した「未来の人類研究センター」の初代センター長に就任した伊藤亜紗だ。「利他学」というこれまでになかった学問を立ち上げ、21年3月にオンラインで開催した利他学会議には、音楽家の小林武史や建築家、生物学者らが議論を繰り広げ、3000人近い参加者が耳を傾けた。

利他とは「自分よりも他者の利益を優先する」という考えだ。伊藤はなぜ、利他に注目するのか。

「東京工業大学でも研究の中心となっている科学技術は、本来人間が幸福に生きるためのものであったはずですが、技術が高度になり細分化していくにつれ、目的が見えにくくなっています。利他という視点は、社会や科学技術のあり方を新しく考え直すヒントになると思いました」

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伊藤が研究の手がかりにしたのは、自身がこれまで感じてきた、利他への違和感だ。

「研究で障がいのある人たちと関わるなかで、彼らに手を貸すことが、必ずしも彼らのためになっていないことがあると感じていたんです。サポートしてもらうという役割に固定されてしまうことが窮屈だという全盲の女性もいました」

役に立ちたいという善意はときに、相手への押し付けになる。

「利他とは、誰かになにかをすることで終わりではなく、相手に受け取ってもらえてこそなんです。アンケートを実施したところ、善意を受け取ることが苦手と感じる人が多いとわかりました。自己肯定感が低く、自分にはそんなことをしてもらう価値がないと考えてしまう。あるいはなにかをしてもらったら相手に借りができたと捉えてプレッシャーを感じる。それでは受け取ったことになりません。どうしたらうまく受け取れるのかと考えるようになりました」

そんな違和感を手がかりに、伊藤は独自の視点を切り拓く。専門とする美学は、曖昧なもの、言葉にしにくいものを言葉で解明していく学問だと伊藤は考える。ロングセラーの『目の見えない人は世界をどう見ているのか』をはじめ、言語化しづらい身体感覚にまつわる本を執筆してきた。

「身体について書く時は、読者が自分の身体で理解できるような書き方を心がけています。読んでいるうちに自分の身体が変わっていくような本を書きたいんです」

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焚き火を囲んだ雑談から、研究者の好奇心を育てる 

利他学を立ち上げた折に研究者を集めて最初に行ったのは、焚き火だ。火を囲んでメンバーは自由に語り合った。

「会議でなくあえて雑談を行いました。クリエイティビティを育てるためには、余白を残しておくことが大切なんです。わからないことを誰かに訊くと思いがけない答えが返ってくることがあります。そして答えた本人にも発見がある。そうやって互いの好奇心が育っていくんです」

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そしていま、伊藤は改めて"働くこと"を問い直す。労働生産性など数字だけで評価されがちなことに疑問を抱いているのだ。

「人は数字のためだけに働いているわけではないんです。働くことで社会の一員として認められ、充実感や自己肯定感も得られます。たとえば駅員は利用者が困った際に手助けをしても、売り上げにはつながりませんが、大切な業務のひとつです。人をケアすることも大切だという感覚が広がっていけば、経済活動全体の意味も変わってきます」

そこで伊藤が提案するのが、締め切りや納期で人をしばらないことだ。

「たとえば、雑誌をつくるなら発売日を決めない。次の発売は少し間が空きますが、ページ数は3倍にします、ということがあってもいい。小説家は締め切りを決めずに書く人も多くて、出版社も『待望の新作』と売り出します。そういうビジネスモデルがもっといろいろなところで成立してもいい」

ファッション界でも新しい取り組みが始まっている。

「知り合いのデザイナー、幾田桃子さんはパリコレから逆算して納期を決めていたのをやめ、つくりたい時につくることにしたそうです。すると職人さんとの関係も変わり、互いに意見を交わして刺激し合いながら制作できるようになってきたというのです」

伊藤のこうした物事への興味の抱き方も、まさに利他と言えるのではないだろうか。

「正直なところ、読者を意識するよりもいつも自分の興味があることをただひたすら追いかけているだけなんです」

美学者の伊藤に最近、美を意識した出来事について訊いた。

「アメリカ滞在中に、英語で会話をしていて、すごくどもってしまったことがあったんです」

吃音をもつ伊藤は、英語を話す際にその傾向が出やすいという。

「けれどもその時、相手は“It’s a beautiful thing.”と言いました。こういう場合に“beautiful”という言葉を使うんです」

伊藤は今後も既存の価値にとらわれない言葉をすくい取るだろう。多くの人にクリエイティブな思考を与えながら。

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WORKS

『きみの体は何者か─なぜ思い通りにならないのか?』

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身体は、自分の思い通りにはならない。顔や体型だけでなく、動作もコントロールできないことが多いのだ。本書では吃音当事者である伊藤が、10代の読者に向けて自身の体験をもとに身体はなぜエラーを起こすのか、それとどう付き合えばいいのかを考えた。自分を知り、自分なりに工夫をして、身体と仲良くなっていく過程をていねいに語りかける。

伊藤亜紗 著 筑摩書房 ¥1,210

『手の倫理』

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人間関係の中で、「さわる」ことや「ふれる」ことはどんな意味をもつのか。ケアやスポーツ、教育、性愛などさまざまな局面で、触覚はどんな働きをするのか。手は、相手の信頼を伝えたり感じたりする一方で、拒絶や暴力につながることもある。伊藤は、触覚が独特のコミュニケーションを成り立たせることを指摘し、手の働きについて思考を深めていく。

伊藤亜紗 著 講談社 ¥1,760

『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

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人は情報の多くを視覚から得ている。では視覚障がい者はどうやって必要な情報を得て、外の世界と関わっているのか。伊藤は視覚障がい者や関係者にインタビューし、目の見える人と見えない人の情報の受け止め方や身体の使い方の違いを考察。目の見えない人は歩く時、足を「サーチライト」としても使っていることなどを示す本書はベストセラーに。

伊藤亜紗 著 光文社 ¥836

『「利他」とは何か』

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伊藤がセンター長を務める、東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター。そこに所属する政治学者や哲学者ら5人が、利他について、それぞれの考えをまとめた論考集。伊藤は本書で、利他をさまざまな料理を受け入れるうつわにたとえ、相手のためになにかしている時であっても、常に相手が入り込める余白を湛えることを提案する。

中島岳志、若松英輔、國分功一郎、磯﨑憲一郎 著 伊藤亜紗 編 集英社 ¥924

※この記事はPen 2022年1月号「CREATOR AWARDS 2021」特集より再編集した記事です。

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