「大人の名品図鑑」スニーカー編 #9
スニーカーブームが続くなか、2021年10月にはマイケル・ジョーダンが現役時代に履いたシューズが史上最高額の約150万ドルで落札された。まだまだスニーカーにまつわる話題は尽きない。今回は好評だったスニーカー編の第二弾をお届けする。
1970年代のナイキ登場前、スポーツシューズ界の2大巨頭といえば間違いなくアディダスとプーマだった。その一つであるプーマの歴史は、20世紀初頭まで遡る。父が営んでいた靴工房を継いだアドルフとルドルフのダスラー兄弟は、1920年にドイツのヘルツォーゲンアウラハで「ダスラー兄弟製靴工場」を設立する。陸上競技やサッカーのスパイク製造などで順調に業績を伸ばしていくが、1948年に兄弟それぞれが独立を決意する。兄ルドルフは「ルーダ」というブランドを設立し、翌年には「プーマ」と改称、現在に至っている。
プーマのシューズを履いたスポーツ選手でいちばん有名なのは、ジャマイカのウサイン・ボルトだろう。2009年、彼が100メートルで9秒58をたたき出した時にも履いていた。ほかにもテニスのボリス・ベッカーやマルチナ・ナブラチロワ、サッカーではペレ、ヨハン・クライフ、ディエゴ・マラドーナなど、スポーツ界のレジェンドたちの多くがプーマを愛用した。
さらにプーマの特徴は、ファッション界とも密接な関係も持っていることではないだろうか。98年にはスポーツブランドとして初の試みである、人気ブランドのジル・サンダーとのコラボモデルを発表。以降もミハラ ヤスヒロ、アレキサンダー・マックイーン、ニール バレット、カール ラガーフェルドと、錚々たるブランドとのコラボレーションを行い、ファッション性の高いシューズとしても人気を集めている。
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「スウェード」と縁深いバスケットボール選手
今回紹介する「スウェード」はプーマを代表するモデルで、登場は1968年。現代でもロングセラーを続けるレジェンド的シューズだが、このモデルの発展にはアメリカのバスケットボール界で大活躍し、ファッションでも注目を集めていたひとりの男が大きく関わっている。その名はウォルト・“クライド”・フレイジャー。彼はジョージア州アトランタで1945年に生まれる。60年代に南イリノイ大学のバスケットボール部で活躍し、67年のNBAドラフト1巡目でニューヨーク・ニックスに指名され、70〜73年にはNBAファイナルに進出し、2度の優勝も果たしている。
「10歳か11歳の頃、一番手にかけていたのはスニーカーだった。朝、スニーカーが乾いて真っ白に輝いているよう、ほとんど毎晩石けんとブラシを使って洗っていた」(『Sneaker Tokyo vol.3 “Puma” 』マリン企画)と語るほどのスニーカー好き。そのフレイジャーが1973年にプーマに「スウェード」のカスタムメイドを依頼し、軽量化やデザインを見直すとともに、サイドに彼のニックネームの「クライド(Clyde)」が刻まれたモデルもリリースされた。ちなみに「クライド」は映画『俺たちに明日はない』(67年)の主人公にもなったクライド・バロウ(ウォーレン・ベイティ)から名付けられたもので、当時のフレイジャーのスタイルは、毛皮のコートに注文仕立てのスーツ、金の鎖のメダルを下げ、もみあげや顎髭をたくわえていた。愛車はロールスロイスというゴージャスなスタイル。雑誌『GQ』の表紙になるほど、ファッションでも注目を浴びた選手だった。同書には「彼が存在しなければ、プーマのいまは違ったものになっていたかもしれない」とも書かれているが、後に数々のファッションブランドとコラボするプーマにあって、それは運命のような出会いだったのだろう。
この「スウェード」が登場する映画が、82年に名監督シドニー・ポラックの手で製作された『トッツィー』(82年)だ。主演のダスティン・ホフマンが、女装をすることで一躍有名になるドロシー・マイケルズを演じているが、女装以外のほとんどの場面で足元を飾るのがこの「スウェード」だ。ウォッシュアウトしたストレートジーンズやカーキのチノパンに、ベージュのアッパーにエンジのラインが入った「スウェード」を履いている。いかにも当時のニューヨーカー風で洒落て見える。
最近ではこの「スウェード」は、ヒップホップカルチャーやスケートボードシーンでもよく履かれている。また、匠の技が光る日本国内工場で生産されたスペシャルなコレクションまで展開するなど、息の長い名モデルとして今でも現役を誇る名スニーカーだ。
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問い合わせ先/プーマ お客様サービス TEL:0120-125-150
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