「大人の名品図鑑」スニーカー編 #8
スニーカーブームが続くなか、2021年10月にはマイケル・ジョーダンが現役時代に履いたシューズが史上最高額の約150万ドルで落札された。まだまだスニーカーにまつわる話題は尽きない。今回は好評だったスニーカー編の第二弾をお届けする。
ニルヴァーナのカート・コバーンが履いたコンバースの「ジャックパーセル」やビョークが雑誌の表紙で履いたリーボック クラシックの「ポンプフューリー」など、スニーカーが本人のアイコンの1つになっているミュージシャンは数多くいる。その先鞭を付けたのが、1980年代に活躍したRUN-DMCではないだろうか。RUN-DMCは、ジョセフ・シモンズ(RUN)とダリル・マクダニエルズ(D.M.C.)、ジェイソン・ミゼル(JAM MASTER JAY)の3人からなるヒップホップグループ。83年にデビューし、翌年にリリースしたファーストアルバム『Run-D.M.C.』はヒップホップアルバムでは初のゴールデン・ディスクを獲得している。
1980年代初頭、ニューヨークのブレイクダンスを愛するBボーイとBガールたちの間では、アディダスやプーマなどのスポーツブランドのウェアやシューズが定着し始めていた。そんななかデビューしたRUN-DMCのコンセプトは「リアル」。彼らはミゼル(JAM MASTER JAY)が着ていた私服をグループの衣装とすることに決め、ストリートウエアでステージに上がった。赤のアディダスのジャージ上下に黒のハット、そして足元はアディダスの「スーパースター」という組み合わせが、当時の彼らの代表的なスタイル。86年にリリースしたサード・アルバム『Raising Hell』には「マイ・アディダス」という曲まで入っている。
『スニーカー文化論』(川村由仁夜著、日本経済新聞出版社)には、マジソン・スクエアガーデンで行われた彼らのコンサートで3人が「君たちのアディダスを見せてくれ!!」と叫ぶと、会場を埋め尽くした2万人のファンが、各自履いているアディダスを空中に掲げて、大合唱になったと書かれている。会場に招かれていたアディダス本社の幹部がこれを目にして彼らと契約を結び、アディダスが新しい市場を開拓するきっかけとなったというから、RUN-DMCが果たした役割は大きい。
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NBAにも革命をもたらした「スーパースター」
そもそも「スーパースター」は、1970年代のアディダスを代表するバスケットボールシューズ。『アディダスVSプーマ もう一つの代理戦争』(バーバラ・スミット著、ランダムハウス講談社)によれば、このシューズの発案者は元販売業者で、アディダスの代表ホルスト・ダズラーの相談役を務めていたクリス・セヴァーという人物。当時、バスケットボールシューズで圧倒的な人気を誇っていたのはコンバースの「オールスター」。しかし、セヴァーはキャンバス製の靴ではグリップが弱く、足首や膝を痛める原因になっていると考えた。そこで、アッパーをレザーにしてホールド感をアップし、つま先を守るためのラバーキャップ「シェルトゥ」も考案したのだという。「シェル」とは貝殻のことで、丈夫さを感じる絶妙なネーミングではないか。また、溝が並んだ「ヘリンボーン」の靴底も靴業界のお手本になったとも書かれている。
開発された当初、選手たちはこの「スーパースター」にあまり興味を示さなかった。しかし徐々にプロバスケットボールのNBAの選手たちにその素晴らしさが浸透していき、このモデルが発表されたのは1969年だが、4年後にはアメリカのプロバスケットボール選手の約85%がアディダスのバスケットボールシューズを選ぶまでに、その人気は拡がったという。多くの選手は「靴に足がプリントされる」とその履き心地を絶賛し、やがてリーグのトップ選手まで「スーパースター」でコートに立つようになった。
このようにアディダスの「スーパースター」は、1960年代から70年代にかけてはスポーツ界から、80年代には音楽界から絶賛された稀有なシューズ。新しい機能を加えた最新のシューズがたくさんリリースされる中、現代でも「スーパースター」の人気は衰えることを知らない。まさに名品だ。
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問い合わせ先/アディダスグループお客様窓口 TEL:0570-033-033
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