圧倒的な質と量、そして資料的価値のあるスニーカーを、自宅に保管するトップコレクター。彼が感じるアーカイブの悦びと、その責任について聞いた。
「もうかれこれ、オニツカタイガーとアシックスは20年以上コレクションしています」と語るのは、世界有数のオニツカタイガーコレクターとして知られる矢萩典裕。彼は6年前に自宅を新築するにあたり、3階ロフト部分に専用の小部屋を設けてしまうほど、コレクション活動に情熱を燃やす生粋のコレクターだ。
功績を後世に伝えたい、価値ある日本スニーカー
「最初にコレクションとして買ったスニーカーは、私が小学生だった1980年代中期に愛用していた、『アシックス タイゴン』というアシックス初めてのキッズモデルでした。懐かしさにまかせて買い集めているうちに、どんどん過去のモデルにも目が向いていき、最終的には初期のオニツカタイガーのスニーカーから、バッグやジャージー、商品カタログまで、ありとあらゆるものを夢中で蒐集していました」
コレクションを始めた当初は、世界的な資料不足から、実際にスニーカーを手に入れられたとしても、製造された年代やモデル名すらわからないこともあれば、反対に資料には記載されていても、実物の存在が確認できないケースも無数にあったという。そんな謎を一つひとつ地道に解明していくことも、コレクターのかけがえのない楽しみと言える。そうしてオニツカタイガーの歴史を振り返っていくうちに、矢萩はスニーカーの歴史を築き上げてきた、日本のモノづくりの素晴らしさに気づかされたという。
「60年代にオニツカタイガーがアメリカに進出した際、現地で販売代理店を務めたのが、後にナイキを立ち上げるブルーリボンスポーツのフィル・ナイト。オニツカタイガーからスニーカーづくりのノウハウを学んだナイトは、契約終了後に自社ブランドのナイキを創設し、すぐにオニツカタイガー最大のライバルへと成長します。そうやって70年代には両社による熾烈な競争が巻き起こり、そのなかでさまざまな技術革新が繰り返され、結果としてスニーカーの性能は飛躍的に進歩しました。日本の職人がつくった日本のブランドが、世界のスニーカーカルチャーをリードしてきた歴史を考えると、当時のコレクションを眺めるだけでもロマンがあります」
矢萩はいま、自身のSNSを通じて、歴史の証言者として情報を発信し続けている。時代の流れとともに失われつつあった数々の資料を蒐集し、それをアーカイブとして後世に遺していく活動は、彼にとってはどこか考古学にも似た、文化的責任感を伴う行為となっているのかもしれない。
矢萩典裕/コレクター
1973年、千葉県生まれ。20代の頃に雑誌『Boon(ブーン)』の影響でスニーカー愛を開花させ、会社員として働くかたわら、ヴィンテージスニーカーの蒐集をスタート。所有数は200足以上としているが、正確な数は本人も把握できていないそうだ。
※この記事はPen 2020年4/15号「オニツカタイガー完全読本。」特集より再編集した記事です。