スニーカーカルチャーに詳しいエディター小澤匡行に、オニツカタイガーが世界中に広がった過程と、2度にわたる日本への逆輸入の流れを聞いた。
フリーエディターの小澤匡行は、ティーンエイジャーだった1990年代にスニーカーブームを経験し、その後大学在学中からストリート系雑誌でライターとしての活動を開始。以来約20年にわたり、東京のスニーカーカルチャーを第一線で見守り続けてきた人物だ。ここではそんな小澤に、2000年代初頭の復活劇から、名だたるファッションブランドとのコラボレーションに至る現在までのオニツカタイガーの快進撃を、ジャーナリストの視点で分析してもらった。
ヨーロッパ発の第一波と、アメリカ経由の第二波。
「やっぱり、僕らの世代でいちばんインパクトがあったのは、映画『キル・ビル』でユマ・サーマンが着用した、黄色に黒のストライプが付いた一足ですよね。オニツカタイガーが、イタリアのピッティ・ウオモでスポーツファッションブランドとして生まれ変わったのが02年のこと、そしてあの映画が03年の公開なので、まさにこれ以上ないタイミングで、世界的に認知度を高めた出来事だったと思います」
02年のオニツカタイガー復活劇、その当時オニツカへの追い風となった出来事は、カルト的な人気を誇った映画だけではなかった。
「当時、ヨーロッパのファッションシーンではレトロスポーツの大きな流れがあり、60年代ドイツ軍のトレーニングシューズをリメイクした『マルタン・マルジェラ』や、エディ・スリマンによる『ディオール オム』のシューズは、モードなスニーカーの代名詞となりました。その流れにうまく乗る形で、日本を含む世界中のファッションシーンに浸透していったのが、クラシックなルックスを踏襲しながら、ハイクオリティなつくりとファッションとの親和性を打ち出した、新生オニツカタイガーだったのです」
この“ファッション性”という部分が前提にあるヨーロッパ発のトレンドは、ヒップホップやスケートといった、アメリカのストリートカルチャーをベースに発展した東京のスニーカーカルチャーとは明らかに毛色が異なり、新しい価値基準を広めることとなった。さらに小澤は、そのヨーロッパの系譜とはまた別の発信源をもつ、第二波が存在したことも指摘する。
「08年ごろ、米国で新しいプレッピースタイルが出てくると同時に、ブルックリンやポートランドを中心に、ライフスタイルと連動したていねいなモノづくりが注目され、クラシックでミニマルなスニーカーが流行しました。その流れに組み込まれながら、オニツカタイガーは再度、日本にいる我々に逆輸入的な形で届けられました」
世界各所でファッションの潮流に乗り、繰り返しピックアップされてきたオニツカタイガー。上質でクラフツマンシップあふれるスニーカーは、時代や国境を超え、いまも新しいファンを増やし続けている。
※この記事はPen 2020年4/15号「オニツカタイガー完全読本。」特集より再編集した記事です。