【小山薫堂の湯道百選】第六十回 “湯は、心を空にする。”

  • 写真:アレックス・ムートン
  • 文:小山薫堂
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これまで一度だけ、風呂の名前を付けたことがある。きっかけは、現存する国内最古の西洋式リゾートホテル「日光金谷ホテル」の創業者ひ孫にあたる故・井上槇子さん。当時、金谷ホテルの社長をつとめていた井上さんから「中禅寺金谷ホテルの古い温泉を露天風呂に改修するので新しい名前を付けてほしい」と頼まれた。今から約20年前、自分の中にまだ湯道の湯の字もなかった頃である。

12㎞も離れた奥日光の元湯から硫黄泉を引き込むも、湯は60℃の高温を保つ。それゆえ加水した上での掛け流し。ホテル本館の外観に合わせてロッジ風の佇まいにした温泉棟には、ガラス張りの内湯と、森の隙間から湖が見える露天風呂がある。初めて浸かったのは夜だった。白濁したトロトロの湯に身体を沈め「はぁ」と溜息をついて空を見上げたら、満天の星が輝いていた。その瞬間、名前は「そら風呂」しかないと思った。

ところが数日後、井上さんは「空ぶろ」と看板を発注した。狙いだったのか、間違えたのか、いまとなってはわからない。が、久しぶりに湯に浸かって確信した。

絶妙な加減の湯に肩まで浸かり、穏やかな風と遊ぶ森に耳をすます。空を流れる白い雲をぼぉっと眺めていると、心の中でもつれていた時間の糸が解けていくのがわかる。いつの間にか、心の中は空っぽになっていた。この湯の価値となる空は「そら」のみならず「から」であり「くう」なのだ。心を癒すここの力を、井上さんはあの時すでに見抜いていたのかもしれない。

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中禅寺金谷ホテルは1940年(昭和15年)に創業。現在の建物はカナダ人建築家が手がけ1992(平成4)年に完成したもの。伝統のフランス料理と温泉が同時に楽しめる。

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JR日光駅からクルマで30分、標高1271mの場所にある中禅寺湖。明治時代には、外国人に人気の避暑地だった。ミズナラが広がる湖畔にホテルは佇む。

<栃木県日光市>
中禅寺金谷ホテル
CHUZENJI KANAYA HOTEL

住所:栃木県日光市中宮祠2482
TEL:0288-54-0007
営業時間:13時~15時
料金:一般¥1,300(日帰り湯)、¥34,418~(2名1室利用時、1泊2食付)
https://www.kanayahotel.co.jp/ckh/

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