歌舞伎俳優の中村壱太郎と指揮者兼クラシカルDJの水野蒼生。ジャンルに収まらない活動をしているふたりに、歌舞伎やクラシック音楽の現状とこれからについて語ってもらった。
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歌舞伎もクラシックも、日常にある娯楽だった
水野蒼生(以下、水野)――僕にとって日本の伝統芸能は馴染みのあるものなんです。小さい頃、両親に増上寺の薪能に連れていってもらったり、ヨーロッパに留学して以降も、帰国すると歌舞伎座の幕見や、能楽堂に足を運んだりしていました。
中村壱太郎(以下、壱太郎)――けっこうご覧になっていますね。そもそも「幕見」のシステムを知らない人も多いですから。水野――当日券で一幕だけ見られるチケットがあるんですよね。値段もリーズナブルで。銀座でちょっと時間ができたりすると、その場で調べて歌舞伎座へ行ったりもしましたよ。
壱太郎――ありがたいなあ(笑)。
水野――ヨーロッパで生活すると、日本人は日本の伝統芸能を知っていて当然みたいな扱いになるんです。これはきちんと知っておかないとなっていうのもありまして。
壱太郎――そこには音楽的な関心もあるんですか?
水野――ええ、音を楽しみに行くという側面はありますね。クラシックの音は耳で聴く感覚がありますけど、お囃子の鼓や笛、雅楽の笙みたいな響きは脳に直接刺さってくる感覚です。これが心地いいんですよ。歌舞伎は日本のオペラで、日常のなかに当たり前にあるエンターテインメント、というのが僕の認識です。
壱太郎――歌って、舞って、技を見せる……たしかにこれはオペラですね(笑)。
水野――時代が数百年経っても、人々が親しみやすいものというのは根本的に変わらない。歌舞伎は、いまでも歌舞伎座で毎日やっていますよね。オペラも当時はいまの映画館みたいに、市民に親しみのあるものだったんです。
壱太郎――僕は音楽には疎いですけど、オペラを初めて見たのは小学生か中学生の時で、上野の文化会館で『トゥーランドット』でした。大変申し訳ないんですが、ほとんど起きていられなかった(笑)。それでも水野さんの最新アルバム(『VOICE - An Awakening At The Opera -』)にも入っている「誰も寝てはならぬ」だけはすごく印象に残っています。音楽には、それぞれの記憶を刺激する作用があると思いますが、水野さんのアルバムは、聴いたことのない曲でも、「この感覚、知っている!」というデジャヴ感があって、心地いいですね。
新型コロナウイルス感染症拡大の影響で劇場公演が中止される中、インターネット上の新しい総合芸術作品として壱太郎さんがつくりだしたのが『ART歌舞伎』だ。一時間半の上演時間で「四神降臨」「五穀豊穣」「祈望祭事」「花のこゝろ」の4演目と濃密な構成で、さらに囃子方ではあまり使われない津軽三味線や筝といった楽器を取り入れ、歌舞伎の美しさやかっこよさを前面に押し出す内容となっている。
水野――『ART歌舞伎』には謡(うたい)があり、舞があり、楽器だけの演奏もある。「あるもの全部見せるから、好きなものを楽しんで」というスタンスは、僕のやりたいことにもかなり近いなと。また、映画的なカット割りで、客席後方からは見えにくい俳優さんの細かな表情や所作、瞬きに新しい発見がありました。
壱太郎――まさにそうした発見をしてほしかったので、うれしいですね。いまの時代、密度と速度が大事だと思うんです。できるだけ濃密に、かつスピーディに歌舞伎や伝統芸能のエッセンスを提示できる形を探りました。物語はシンプルにして、かつ、あれだけカメラワークを切り替えたのも、興味を持ってもらえるポイントをできるだけ広げておきたかったんです。
水野――自分好みのポイントが見つかると、楽しいんですよね。『ART歌舞伎』において、僕の場合は「舞」でした。歌舞伎は全体のストーリーやお芝居を見に行く感覚でいたので、じっくりと舞踊が見られるのは興味深かったです。とくに笠蓑を被って舞う「祈望祭事」は、フォーメーションや動きのかっこよさがダイレクトに伝わってきました。歌舞伎の新しい楽しみ方を知りましたね。
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変えるものと残すものの取捨選択が、ますます重要になる
水野――歌舞伎もクラシック音楽もアナログの時代からあるので、技術革新によって変わった部分と、それでも変わってない部分の両方がありますよね。わかりやすいところだと、照明の技術なんてとてつもなく進化しましたが、根本となる芝居や歌に関してはそれほど変わったわけではない。だからこそ僕のアルバムでは、その「変わらない」とされているほうの歌を変えてみようと思ったんです。でも、そうしたことができるのも、時代を超えても素晴らしいものであるという証拠なんですよね。結局、変わらない普遍的な要素は残る。どこを残すのか、あるいは変えていくのか。その区別も重要ですし、そうした思惑を超えて発展することもあるのかなと思います。
壱太郎――そうした流れは歌舞伎でもこの何年かで加速してきていて、取捨選択ということを、やはり常に念頭に置いておく必要がある。たとえば公演チラシをもっと若い人にも興味もってもらえそうなデザインにするとか、そういうことはどんどんやるべきだと思うんです。
水野――チラシ問題はありますよね(笑)。クラシックでも文字だけ羅列されているようなものがよくあって、それだと初心者の方にはハードルが高すぎる。さすがに変わりつつはありますけど、まだまだですね。
壱太郎――文字の羅列……ホントそうなんですよ(笑)。少しずつ変えていくしかないのかなと。中身についても、クラシックという伝統的な音楽を、現代に生きているものにするためにどうするのかというアプローチが、水野さんの場合、アルバムごとにそれぞれ異なっていますよね。最初がクラシック音楽のミックスアルバムである『MILLENNIALS -We Will Classic You-』、次にベートーヴェンをアップデートした『BEETHOVEN -Must It Be? It Still Must Be-』、そして声をテーマにした最新アルバム『VOICE - An Awakening At The Opera -』。このバリエーションも面白い。
水野――僕の活動コンセプトは、「クラシック音楽の入り口をつくる」ということなんです。ですから、『ART歌舞伎』と同じく、できるだけ興味をもってもらえそうなポイントを増やしておきたいんです。実はクラシックに興味あって、でも、「なにから入ったらいいのかわからない」という状態の人がけっこう多いんじゃないかと思っていて。
壱太郎――それは、まさに歌舞伎でも思うところですね。
水野――なので、まずは僕のところに出発点としていったん寄ってもらい、その先にいる凄い人たちのことを知ってもらう、というやり方を考えているんです。この道をいけばその先に凄い世界が待っています、みたいな。そのためのキュレーションの結果が、それぞれアルバムになった感じです。
壱太郎――つまり、初めての人はここから入るといいんじゃないかっていうことを考え抜いた結果、ということですよね。やはり、そこが大事だなと。歌舞伎も初心者向けの入り口というか看板を立てた試みをいちおうやってはいるんです。でも正直、それが初心者にとって最適なやり方になっているかというと……、僕はまだまだできることがあるんじゃないかと思ってしまうんです。鑑賞教室とかもあるんですが、果たしてそれが子どもや学生に対して歌舞伎への興味につながるような内容や仕掛けになっているのか、そのことを考え抜いているのか、と言われると、難しいところで。
水野――「○○入門」とか「○○教室」って、お題目になりがちなんですよね。
壱太郎――そうなんです。「初心者向けにやっています」っていう名目だけになってしまったらいけないと思うんです。僕としてはもう少しアクセントをつくりたい。普通に焼いた魚も美味しいけど、煮魚にするとか、西洋風にムニエルにするとか、見せ方について、そういう工夫があってもいいんじゃないかと。YouTubeで水野さんの国際フォーラムで行ったライブ動画を拝見して、まさにそういう刺激を受けました。クラシック音楽をこんなふうに楽しく見せることができるんだって。
水野――「ラ・フォル・ジュルネ」というクラシックのフェスに出演したときの動画ですね。ダンサーと一緒に、お客さんもステージに上がってもらって。あれが初日で、2日目と3日目は野外でやりました。キッチンカーが並んでいて、観客が食べたり飲んだりしているなかでライブをしたんです。
壱太郎――最高じゃないですか。水野さんが「ファンタジア」のミッキーみたいに見えました(笑)。伝統のある楽曲が、水野さんの魔法で新しく甦るというか。歌舞伎もかつてはお弁当を食べたり、おしゃべりをしながら楽しむエンターテインメントだった時代があります。いまだって、いろんな可能性がまだまだ眠っていると思うんです。コロナ禍によって舞台の価値がより問われる時代だからこそ、そんなことを強く感じています。
水野――歌舞伎の世界って「お家」で成り立っているイメージもあります。そのことでなにか縛られたりするようなことはあるんでしょうか。
壱太郎――一門の屋号がありまして、僕の場合は「成駒家(なりこまや)」となります。この屋号のもと、大事にしなきゃいけないことはある。ただ、これは父(4代目中村鴈治郎)にも感謝しなくてはいけないことですが、僕がなにか新しい挑戦をすることに関して「ノー」と言われたことはこれまでありませんでした。遡れば、祖父(4世坂田藤十郎)も映画に出たり、宝塚のショー的なことをやったり、歌舞伎以外のことをたくさんやってきた人でしたし、他の歌舞伎の家よりは自由なほうだと思います。たとえばほかの一門や流儀の方に芸を習いにいくこともよしとされていますし。
水野――そうなんですね。クラシックにも師弟関係や派閥のようなものがあるんですよ。僕はそういう世界でがんじがらめになってしまうのが嫌で海外に出たということもありまして、いまはわりあい自由の身なんです。それもあって音楽家の友人から、「こんなチャレンジをしてみたい」と相談されることが多い。僕は「やればいいじゃん」って言うんですけど、みんなわりとしがらみに苦しんでいて……。
壱太郎――ああ、わかるなあ。ただ、そのしがらみはその人にとっての守るべき道でもあったりするので、僕の場合は「やったらいいのに」とは言えますけど、「じゃあ、一緒にやろうよ」とまではなかなか言えない。そこは、どんなに仲がよくても、引かなきゃいけない一線があると思っています。なにをもってアリとするか、ナシとするか、というのはそれぞれが考えていくことでもありますので。
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自分の軸をしっかり持ちながら、大衆の流行からヒントを得る
水野――そう、「なんでもかんでも」っていうのは違いますよね。
壱太郎――そのジャンルの範疇であるか否かの線引きは、それぞれの感性によると思うんです。ART歌舞伎だって、人によっては「歌舞伎じゃない」と捉える人がいるかもしれない。そういうときに僕は、「歌舞伎ってなんだろう」というところに還ってみるんですね。歌舞伎は「傾く(かぶく)」という語源から来ていますので、じゃあ「現代でかぶく」とはどういうことなのかな、と。
水野――ART歌舞伎は、かぶいてますものね。僕の場合も、クラシックでDJをすることに怒る人はごまんといます(笑)。そもそも、一楽章だけ抜き出してプレイするっていうことで怒る人もいる。でも、僕のなかで「これはやらない」っていう一線というか、こだわりはちゃんとあるんです。音楽的に曲を壊してしまうようなことは絶対にしない。クラシック音楽を安易に8ビートにするようなアレンジがたまにありますが、そういうことが大嫌いで。だけどベートーヴェンのこのグルーヴだったら、曲を壊さずにそれに見合ったリズムセクションをつくることができるかもしれない、とか、仮にベートーヴェンがいまの時代に生きていたら、それこそEDMのような大衆を興奮させるような音楽をつくっていたはずで、そうなるとそこにドラムを入れてはいけない理由はない、とか、そこは理屈をちゃんと考えています。
壱太郎――大義名分はちゃんとあるぞ、と(笑)。
水野――それって大事ですよね。そもそも「クラシック」という言葉で1600年代から1900年代まで400年間の音楽全部を、あるひとつのイメージに括ろうとすることが疑問というか、無理があるなと感じていて。僕は、クラシック音楽とは、すごすぎた作曲家たちによる、どんなに時代が変わっても揺るがない、永遠のヒットチューンや殿堂入りした音楽っていうふうに捉えています。
壱太郎――歌舞伎も同じように1600年代頃に生まれて400年以上経っていますが、この400年を総括して、歌舞伎をたったひとつのイメージに集約することは難しいと思います。現代に残らなかった演目もあるだろうし、いまでは先輩方が『ONE PIECE』や超歌舞伎など新しい歌舞伎も提示している。みなそれぞれに歌舞伎に対して思いがありますし、また、歴史を遡れば、役者である自分たちが思っている以上に、いろんな歌舞伎があったはずで。たとえばセリフのスピードひとつとっても、意外なことに、昔の役者さんのほうが速かったりすることもあるんです。
水野――それ、クラシック界でも同じです。モーツァルトやベートーヴェンの時代と比べて、いまは音も変わっているし、弾き方も全然違う。オーケストラも、モーツァルトが初めて自分のオペラを披露したとき、ファーストバイオリンは3人だけで、ピアノが即興演奏することもあったらしい。そう考えると、僕らも固定概念に捉われずに、もっといろんな可能性を考える努力を怠ってはいけないと思います。
壱太郎――水野さんは現代のポピュラー音楽や、実験的な音楽など、いろいろと聴かれていますよね。
水野――ええ、サブスクリプションサービスの新譜のプレイリストが週に2回更新されるんですが、それはすべてチェックします。加えて、メジャーなものだけではなく、国内外の新しい音楽も幅広く聴くようにしています。いまの流行を常にキャッチしておかないと、現代の人に刺さるサウンドはつくれないと思うので。
壱太郎――僕も、歌舞伎俳優ですが、現代的な舞台芸術も、商業演劇も、小劇場演劇も、宝塚も大好きで、いまはコロナ禍で控えてますけど、よく観に行くんですね。どういう舞台芸術に人は魅力を感じるのかが、常に気になるので。そこに歌舞伎の集客のヒントもあると思うんです。最近、舞台『夜は短し歩けよ乙女』に出演した際も、得るものが大きかった。
水野――すごく共感します。クラシック音楽も、時代ごとの大衆に支持されてきたことに意味がある。だから、現代においても、多くの人を惹きつけている新しい音楽にこそヒントがあると思っています。
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コラボして楽しかったと言ってもらえるのが、なによりもうれしい
水野さんが2021年3月に発売したアルバム『VOICE - An Awakening At The Opera -』では、オペラ、歌曲の魅力を発信するとともに、小田朋美さんや君島大空さんなどさまざまなアーティストとフィーチャリングすることで多様な音楽ジャンルとの架け橋が生まれたという。
水野――音楽シーン全体を見渡しても、自分が10代の頃はこれほどフィーチャリングやコラボは多くなかったと思うんです。もともと音楽って、ジャンルを掛け合わせて新しいものを生みだすというサイクルの積み重ねなので、その速度が上がったということは、常に情報吸収を怠ってはいけないということでもある。同時に、気軽にそれができるという楽しさもあります。クラシックや歌舞伎でも、古典とされている曲や演目の場合、ジャンルを超えてつながる一つの旗印として機能しやすい気がします。
壱太郎――たしかに。ART歌舞伎でも、和楽器奏者は普段、歌舞伎の音楽にはまったく関わっていない人たちなんですね。それもあって、歌舞伎に関わるということにとても意義を感じてくれましたし、楽しんでくれましたね。
水野――僕のアルバムでもそうでした。クラシック音楽を意識してはいても、でも接点はなかったという人たちが、僕からのオファーを快く引き受けてくれました。たとえば君島(大空)くんは、「クラシックは自分には相容れないもの」と思っていたそうなんです。でも、今回シューマンの歌曲を歌ってもらったら、「意外とすんなり入っていけて、新境地が見えたかも」と喜んでくれました。
壱太郎――そういう感想は嬉しいですよね。お話を聞いていて、水野さんのライブを拝見したくなりました。
水野――僕も、最近はコロナ禍のことなどもあって、ライブという現場について厳しい状況ばかり目に入ってしまいがちだったんですけど、壱太郎さんとお話ししていて、なにか明るいものが見えてきた予感がします。それに僕も壱太郎さんの歌舞伎が見たいです。
壱太郎――そうやって、僕たちがお互いクラシックを聴きたい、歌舞伎を見たいと思えたように、この輪をできるだけ広げたいですよね。街行く人たちに、「そんな面白そうなことをやっているなら、一度行ってみたい」と思ってもらいたいですもんね。
水野――ホントそうですね。
壱太郎――また、お互いのライブや舞台を観たあとにいろいろ話しましょう。
水野――ぜひ!