3世紀の書物に餃子と思しき食品が登場するなど、餃子発祥の地として有力なのはもちろん中国だ。餃子がどんな経緯で発達し広まったのかを探ってみよう。
~調理方法による餃子の分類~
焼き餃子
日本では主流の食べ方。豚肉、キャベツや白菜、ニラ、そしてニンニクを入れるのが日本のポピュラーなスタイル。中国では鍋貼(グオティエ)あるいは煎餃(ジェンジャオ)と呼ぶ。
蒸し餃子
中国全土で食べられ、最も一般的。代表的なのは、広東(あるいは香港)飲茶の点心類だろう。薄く透けるような皮のものは浮き粉や米粉を使っているため。繊細な味わいだ。
茹で餃子
中国の北方で餃子といえば水餃子。茹で上げた餃子のことで、東北地方ではこれが主食。形が古い貨幣に似ているため、縁起を担いで正月など祝い事には必ず食べる習慣がある。
揚げ餃子
油で揚げるタイプの餃子は、日本ではよく見かけるものの、中国ではあまり一般的ではないようだ。広東飲茶に、家郷威水角(もち米の揚げ餃子)などの揚げ餃子がある。
〜小麦製の皮を使った中国の食品の例〜
小龍包(シャオロンパオ)
口中に飛び出すアツアツの肉汁が魅力。豚挽き肉に鶏ガラスープや豚皮の煮こごりを混ぜ、半発酵させた小麦粉の皮で包んで蒸したもの。このゼラチンが肉汁のもと。
焼売・焼麦(シャオマイ)
ルーツは現在の内モンゴルだとか。薄い小麦粉の皮で、豚挽き肉や海鮮などを円柱状に包み、蒸した点心。なかには、もち米を包んで蒸した、もち米焼売などもある。
春巻(チュンジュアン)
立春の頃、新芽の野菜を具にしてつくったところからこの名がある。千切りにした豚肉や筍や椎茸を炒め、小麦粉でつくる皮で巻いて揚げるお馴染みの春巻は広東スタイル。
包子(パオズ)
小麦粉を発酵させてつくる生地で肉や野菜の餡を包み、蒸したもの。広東の叉焼包、上海の生煎包子などが有名。日本では中華まんとしてお馴染みの味だ。
饅頭(マントウ)
餡の入っていない包子。東北地方では主食として食べられ、華中・華南地方では小ぶりのものが点心として食べられる。砂糖を加える花巻も饅頭のひとつ。
餛飩(ホントン)・雲呑(ワンタン)
薄く伸ばした小麦粉の四角い皮で、肉や魚介、野菜などを包み、一度茹でた後にスープに入れて供するのが一般的。甘酢あんをつけて食べる揚げ雲呑もある。
---fadeinPager---
製粉技術の発達とともに、庶民も食べるものに
日本人にとって、もはや国民食とでも言えるほど馴染みの深い餃子。だが、そのルーツは意外にも未だはっきりとは解明されていないようだ。
中国料理研究の大家、木村春子先生によれば、「餃子のように庶民の生活に入り込んだ食べ物は、系統的な発展過程を明らかにするのは難しい」
いまで言う餃子らしきものが、いち早く文献に登場するのは3世紀。中国は三国時代、魏の書物『廣雅(こうが)』に書かれている「餛飩(ホントン)」なる食べ物がそれである。この餛飩という言葉だが、時代によって“うどん”とも、今日でいう“ワンタン”の意味でも使われることもあったようだ(そういえば平安時代初期、弘法大師が中国から日本に伝えたもののひとつに、餛飩==うどんがあったことは有名な話。この時、餃子は伝来しなかったのだろうか)。
また唐代(7~10世紀)になると、餛飩はより一般的になるようで、それが証拠に書物『北戸録(ほくころく)』には、かつての北斉の顔之推(がんしすい)の言葉として、「いまの餛飩、形は偃月(えんげつ)の如し、天下の通食なり」が引用されている。偃月とは半月形のことで、半月形の餛飩とは、水餃子のことを指していると想像される。1995年、新疆ウイグル自治区のトルファンで発掘された唐代の墓からは、5㎝大の三日月形の食品が発見されており、これはまさしく餃子である。
ところで、隋(6~7世紀)・唐時代、餛飩と呼ばれる餃子らしきものが一気に広まった背景には、製粉技術の進歩がある。秦・漢時代(紀元前8~紀元3世紀)にも、碾臼(ひきうす)の開発により小麦を製粉してはいたものの、労力のいる手挽き作業ゆえ、特権階級にのみ許される贅沢な食べ物だったようだ。それが、西方からシルクロード経由で水車による製粉技術が伝播。粒食から粉食へと一気に弾みがついたわけだ。宋代(10~13世紀)になると、餃子はさらに庶民の食生活に根付いたようだ。
「この頃、餃子は角子(ジャオズ)(または角児(ジャオル))と書くようになります。北宋の『東京夢華録(とうけいむかろく)』には“水晶角児(透明餃子)”や“煎角子(ジェンジャオズ)”の名が載っていますから。餃子の種類もかなり豊富になっていったことが想像されますね」と木村先生。
焼き餃子が誕生したのも、どうやらこの時期のようだ。元(13~14世紀)の頃にはますます種類が増えていったことは、当時の代表的な食経(しょくきょう)『飲膳正要(いんぜんせいよう)』『居家必用事類全集(きょかひつようじるいぜんしゅう)』に、「蒔羅角児」(蒔羅はディルのこと)や「駱峰角児」(ラクダのこぶ餃子)などバラエテイ豊かな名が記されていることからもよくわかる。明代(14~17世紀)になって、ようやく餃の字が使われ、「扁食(ビェンシー)」「湯角(タンジャオ)」とも呼ばれていたようだ。
そして、北方民族による征服王朝である清(17〜20世紀)となって、「餃子」「水餃」という表記法が一般化する。満州族は、餃子のことを“餑々(ボボ)”とよび、もともと好んで食べていたようで、清朝皇帝の誕生日にはたくさんの種類の餑々が満州から北京まで送られたというエピソードも。あの西太后も餃子を好んで食べたひとりである。ちなみに、日本人でいちばん最初に餃子を口にしたのは、水戸黄門こと水戸光圀公らしい。明から亡命してきた朱舜水(しゅしゅんすい)が伝えたと言われている。
---fadeinPager---
サモサやラビオリなど、世界に伝播した餃子的な食べ物
刻んだ肉や野菜、あるいは魚介類などの具を、薄く伸ばした小麦粉の皮で半月状に包み、加熱した食べ物――。
餃子といわれて、日本人が思い浮かべるのは、大方こんなイメージだろうか。だが、実のところそう簡単には言い切れないのが餃子の実体のようだ。
「世界には、(先のような)定義に当てはまらない餃子状の食べ物がたくさんあります。餃子と同じように具材を包んでスープで煮たワンタンや、小型の包子パオズとはどう区別するのか。また、ブータンにはヘンテと呼ばれるソバ粉の皮で包んだ餃子状の食品があったりと、餃子を定義することは、かなり難しいと言ってもいいでしょう」
こう語るのは、民族学者の石毛直道先生。石毛先生によれば、餃子発祥の地である中国で、西アジア原産の小麦粉が本格的に栽培されるようになるのは、前漢の時代(紀元前3~紀元1世紀)から。当時の中国では、小麦製の食品を煮たり蒸したりする料理が多く、餃子もそのひとつだった。麺同様、シルクロードを通ってユーラシアの西側まで伝播した可能性が強いという。
各国の餃子状の食品を見てみると、バラエテイが豊か。しかも面白いことに、餃子を“餃子„の名で呼んでいるのは中国と日本ぐらいのものなのだ。韓国ではマンドゥ、トルコはマントゥ、ウズベキスタンではマントゥイ。「餃子の化石」が発掘された新疆ウイグル自治区のトルコ系住民はマンタと呼ぶ。また、モンゴルで水餃子はバンシ、蒸し餃子はボーズ。チベットやネパールではモモとなる。こうした呼び名の違いは、餃子が中国から伝来した時代を象徴しているようで興味深い。
2ページでも書いたように、中国でも餃子の名が一般に定着するのは清代(17~20世紀)に入ってからのこと。時代を追うごとに、交子(ジャオズ)、角子(ジャオズ)、粉角(フェンジャオ)、餃児(ジャオル)と変遷。他の小麦粉食品と混在していた時期もある。そんな饅頭(マントウ)や包子との区別がまだ曖昧だった頃に餃子が伝わった地域が、韓国などマントウ系列の国々だろう。ボーズは包子、バンシは扁食(ビェンシー)がそれぞれの語源と思われる。また、モモは、北方民族の餃子の呼び名、餑々(ボボ)から来ているようだ。
石毛先生によれば、「こうした中国語起源の名称が分布する地域は、13世紀後半に中央アジアから東欧の一部まで支配したモンゴル帝国の版図と、その隣接地域にほぼ一致する」そうで、ある意味、モンゴル帝国が餃子を世界に広める一翼を担ったと言えるのかもしれない。ロシアやポーランドなどの東欧諸国でも、さまざまな食べ方をする餃子状食品を見ることができる。
一方、独自に発展を遂げたのがインドの揚げ餃子、サモサ系である。中央アジアではサムサ、エジプトやシリアにはサンブサという餃子状食品があり、語源はペルシャ語に由来するらしい。最後にラビオリ。イタリアはポーランドやトルコからそう遠くないものの、「餃子の仲間として扱うかどうか微妙な存在」のようだ。
この記事はPen 2016年4/15号「1冊まるごとおいしい餃子。」特集より再編集した記事です。