午後4時。夏のまだ強い日差しが残る夕刻、「もつやき ばん」の軒先にのれんが掛かる。すると常連と思しき客がひとり、またひとりと店内へ吸い込まれていく。席に座ると、どの客も口を揃えたように「サワーひとつ」とひと言。やがて目の前に焼酎が入ったジョッキと瓶入り炭酸水、そして切り口も鮮やかなレモンが1個運ばれてくる。
焼酎を炭酸水で割り、レモンで味付けするだけ。シンプルで飲み飽きず、料理にも合う。そんなレモンサワーのつくり方を誰が考案したのか定かではない。だがレモンサワーの名付け親で、そのおいしさを広めた店として、「もつやき ばん」の名は歴史に刻まれる。
時は昭和の東京オリンピック前夜に遡る。店主の小杉潔さんは、少し遠い目をして当時のことを話し始めた。
「親が東京の中目黒で家を建て直すことにしてね。そうしたら、兄がもつ焼き屋をやりたいって言い出した。昭和33年、僕が高校生の時でした」
いまでこそ洗練された中目黒だが、その頃の駅前には長屋がぎっしりと立ち並んでいた。店を手伝う小杉さんが客として相手にしていたのは、おもに職人や町工場に勤める人々。飲み物のオーダーは、ほとんどが焼酎だった。
「当時は焼酎に甘いシロップを入れて飲んでいた。でも、兄は研究好きでね。炭酸水を入れたり、ジンジャエールで割ってみたり、いろいろ試しては客に薦めていた。炭酸水を入れたものは“チュータン”なんて呼んでたかな。そこにレモン汁を搾るのが美味いと評判になってね。他の客も始めたんですよ」
店の看板メニューには、粋で呼びやすい名前がほしい。そこで焼酎の炭酸水割りをサワーと命名。レモンサワーが誕生した瞬間だ。でも、サワーの響きはどこから来たのだろう。
「どこからかなぁ。兄はカクテルも勉強してたから、その影響じゃないかな。よく『爽やかのサワ』と言われるけど、後づけのダジャレだと思うね(笑)」
ばんのレモンサワー人気は、思わぬ方面へも派生していく。店で使っていた炭酸水は博水社の瓶入り商品。すごい勢いで炭酸水を消費する店がある、という話は製造元の耳にも入る。
「気になっていたんでしょうね。当時の博水社の社長さんは下戸だったんだけど、よく店に来ていたらしい」
ヒット商品の裏側には、消費者の嗜好を的確に見抜く目が欠かせない。ばんのレモンサワーから刺激を受け、オリジナルの割材を開発。生まれたのが、あの「ハイサワー」である。
中目黒駅周辺の再開発のため、2004年に中目黒の店を閉じた。いまは隣の祐天寺でその歴史を受け継ぐ。レモンサワーがブームとなり、他の店が独自のつくり方を競うなか、ばんのスタイルは昔と変わらない。ここで「サワー」といえばレモンサワーのこと。客が自分でレモンを搾り、焼酎が好みの濃さになるよう炭酸水を注ぐ。
「おいしいつくり方を教えようか」と小杉さんが言う。レモンは搾り器に乗せて出しているけれど、実は搾り器は使わなくてもいいらしい。
「レモンはグラスの上でギュッと搾る。さらに皮をねじるようにグリグリとつぶす。香り成分は皮にあるからね」
炭酸水を注ぐと、なるほど鮮烈なレモンの風味がグラスから立ち上る。味のランクが格段に上がった感じだ。
「うちのは古いやり方だけど、自分好みの味にできるし、つくる楽しみもある。いいとこ結構あるじゃない」と笑う小杉さん。レモンサワーはこれからも進化していくだろう。でも、一度原点に立ち戻り、その可能性に改めてハッとさせられる場所。ばんは、そんな店であり続けるのだ。
もつやき ばん
東京都目黒区祐天寺2-8-17
TEL: 03-3792-3021
営業時間:15時~22時
不定休
※営業日時・内容などが変更となる場合があります。事前に確認をお薦めします。
※Pen2020年7/1号「もっとおいしい、レモンサワー」特集よりPen編集部が再編集した記事です。