気鋭の映画監督、今泉力哉が下北沢を舞台に古着屋で働く主人公の日常をユーモラスに描く。

  • 文:燃え殻(作家/エッセイスト)
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昨年は『mellow』『his』が話題を呼んだ今泉力哉監督が、漫画家の大橋裕之とともに脚本も手がけた。下北沢を舞台に、古着屋で働く主人公・荒川青を取り巻く恋人や住人たちとの日常、魅惑的な女性たちとの出会いをユーモラスに描く。Ⓒ「街の上で」フィルムパートナーズ

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僕は下北沢の街に思い出がある人間ではない。それが僕のコンプレックスのひとつだ。学生時代はずっと横浜あたりで遊んでいた。社会人になってから、時々下北沢に行くと、経験したはずのない、あの頃を感じることがある。体験したこともないはずの懐かしい思い出を、あったような気にさせてくれる街だと、下北沢のことを勝手に思っている。先日、数年ぶりに、下北沢に行く機会があった。その時、帰りしな古着屋に一軒寄ってみた。店員は、やる気があるんだかないんだか。風体は、今泉力哉監督『街の上で』の荒川青まんまだった。店には何人かのお客さんが古着を物色している最中の様子。どの客も個性的で、渋谷などではあまり見ないタイプに見えた。「どうですか?」とひとりの客が店員に聞く。「いいっすね」と店員は座ったまま答えた。荒川青でしかなかった。下北沢は不思議な磁場がある。その磁場は高円寺ほど結界を張っていない。中野の猥雑さともまた違う。渇いた探究心を失わない。車道を横切って、小道に入り、さらに路地を曲がってみた。すると一度も来たことのない場所に出る。こんなところにも、看板の出ていないアメリカのトーイ専門店があった。

扉を開けるとカランコロンと音がする。店主は、まだ若い青年でレジの横で、文庫を読んでいた。店内からは、甘いアメリカのチューインガムの匂いがした。その時ふと、この場所で僕は生活をしていたことがあるような錯覚を覚える。小さくラジオが鳴っていた。経験したことのないあの頃のことを思い出していた。懐かしい時間と人との出来事。こそばゆいやり取り。あったかもしれないし、なかったかもしれない記憶の断片。それは、あの感じに似ていた。今泉力哉監督の新作『街の上で』を観た後のあの感じ。僕の思い出の中にない、確かに懐かしいあの頃の記憶の味。

Ⓒ「街の上で」フィルムパートナーズ

Ⓒ「街の上で」フィルムパートナーズ

『街の上で』
監督/今泉力哉
出演/若葉竜也、穂志もえかほか 2019年 日本映画
2時間10分 新宿シネマカリテほかにて公開中。 
https://machinouede.com/