ウイルスに翻弄された昨年、いちばんの貧乏くじを引かされたのは飲食業界に違いない。慣れないテイクアウトを始めたレストランや、この時期だけの酒販免許で大切なワインのストックを売るソムリエたちの姿を見守りながら、さまざまなメディアで「酒場やレストランの大切さ」を提唱し続けたひとりが、文筆家の森一起だ。
「酒場やレストラン、それにライブハウスや劇場。そんなものがなくたって生きていける人もいるかもしれない。僕はそんな人たちに説明する時、ロバート・フロストが詩を定義した文章を紹介するんです。『人がそれを忘れたら貧しくなるようなものを思い出すひとつの方法』、それはそのまま食と酒、そして音楽にも当てはまる」
確かに、酒や美食、音楽などは決して生活必需品ではない。でも、それらがない人生など渇ききった砂漠のようなものだ。自粛が要請された季節も食と酒の行方を見続けた森に、その尽きせぬ魅力にあふれ、かつ手に入りやすい3冊を挙げてもらった。
「食はまさに文化そのものだということを教えてくれる本、自然派ワインの指針となる新書、自炊に目覚めた人たちへの画期的なレシピ本の3冊です」
カリスマ的な人気を誇り、予約が取れないことで有名な料理ユニット「アンドシノワーズ」が出版した、まるで写真集と見まごうレシピ集。まずは『旧フランス領インドシナ料理』だ。
「私は中学生の頃『マレー蘭印紀行』という金子光晴の旅行記に夢中になって、蘭印や仏印にとても興味をもった。いわゆる植民地時代のインドシナです。アンドシノワーズのふたりも仏印に惚れ込んで、現地に何度も足を運び、魚醤とハーブの料理ユニットをつくった。でも、仏印自体は60年以上前になくなっていますから、この本は失われた南のコロニアルに運んでくれるタイムマシンと言えるかもしれません。写真家の園さんの写真も、ふたりの文章も素晴らしく、食は高度な文化であることを認識させてくれます」
自然派ワインの伝道師だった勝山晋作の『アウトローのワイン論』は、宅飲みが多くなったいまに最適な一冊。
「2019年に亡くなられた勝山さんがいなかったら、日本はいまのような自然派ワイン大国にはならなかったはずです。歳も近く、音楽の趣味が似通っていたので、いつも笑顔で優しく接してもらいました。自然派以外のあらゆるワインにも造詣が深く“造り手の顔が見えるワイン”にこだわった。情熱的で行動力抜群。そして面倒見がよく、日本の若いシェフたちはどれだけ彼に力を与えられたかわかりません。『おいしいからいい、おいしくしたいなら自然に造るのがいい』、彼が生涯言い続けた言葉は時代を超えています」
コロナ禍により多大な影響を受ける飲食業界において、逆に評価を押し上げた料理人が、鳥羽周作だ。彼の無料公開レシピ「#おうちでsio」はステイホーム中のトレンドワードになった。そのレシピをさらに充実させ書籍化したのが、『やさしいレシピのおすそわけ #おうちでsio』だ。
「料理人たちはみんな、料理で人を喜ばせることを天命だと思っている。彼らが店を休まざるを得なかった時、本来シークレットなはずのレシピを公開し始めた。『mondo』の宮木康彦さん、『樋渡』の原耕平さんも同様に。なかでもいち早く『#おうちでsio』を立ち上げたのが鳥羽さんです。彼のレシピがすごいのは料理上手な人向けでないこと。ミシュラン獲得シェフが、すぐに手に入る材料を使って、誰にでもおいしくできるレシピを考えた。たとえば、『万能お米でパラパラチャーハン』というのは、チャーハン専用の『万能お米』をつくってしまうことで、最大の関門である『パラパラ』問題をいともたやすくクリアしてしまう。小学校の先生出身ですから、教え方がうまく、しかもロジカル。他にも驚愕のメニューが満載。誰もがすぐに、家庭のキッチンに立ちたくなるはず」
再開した神保町の酒場「兵六」で、久しぶりに麹町のオフィスにやって来た女性とコの字カウンターで会遇。芋焼酎のお湯割りを飲みながら、とりとめのない話をした時、お互いの目頭が熱くなったというエピソードを最後に話してくれた森。今後ワクチンが完成したとしても、コロナ前の生活は戻らないだろう。だからこそ、本を通して食と酒が生活にもたらす意義を知る時期が来たのかもしれない。
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※Pen2020年11/1号「心に響く本」特集よりPen編集部が再編集した記事です。