【Penが選んだ、今月の読むべき1冊】
1960年代のブラジルに起こったトロピカーリアもしくはトロピカリズモといわれる芸術ムーブメント。その中心的存在であり、いまやブラジル音楽の頂点と称賛されるカエターノ・ヴェローゾの自伝的な一冊である。
まるで謎解きのような序文の後、生い立ちから、ジョアン・ジルベルトとの出会い、妹のマリア・ベターニアやライバルといわれたシコ・ブアルキのことまで、膨大な記憶の断片が独特の筆致で語られていき、読むごとに引き込まれる。なかでも特筆すべきは、やはりトロピカーリア周辺の話題だ。ジルベルト・ジルやガル・コスタといった盟友たちについてはもちろん、時代を追って書き進めるだけでなく、カエターノならではの視点で、さまざまな切り口から論考を展開していくのだ。まるで哲学書のような啓示も多々あり、ハッとさせられることも多い。
そしてさらなる山場は、軍政下の検閲による逮捕の顛末が書かれたエピソードである。ジルベルト・ジルとともに逮捕され、釈放に至るまでの状況と精神状態が、臨場感をもって描かれていく。その中にある共産主義者の老人や陸軍警察の将官と歌を通してコミュニケーションするくだりは、いかにもカエターノらしい。
個人的には、英語圏の音楽から受けた影響についての考察、特にローリング・ストーンズを高く評価している話や、アヴァンギャルドな問題作『アラサー・アズール』についての記述を非常に興味深く読んだ。いずれも彼の音楽を理解するには格好のテキストといえるかもしれない。
それにしても、約500ページにわたり比喩や引用を多用した聡明な文章を完璧に読み込むには、相当の体力と時間を要することを覚悟していただきたい。その上で、この知の集積に触れれば触れるほど、ブラジル音楽の奥深さを実感できるはずだ。