2月19日、ファッション界に悲しみが広がりました。シャネル、フェンディのデザイナーを務めたカール・ラガーフェルドが死去したのです。享年85歳でした。
イヴ・サンローランやユベール・ド・ジバンシーらが活躍したクチュール時代から、いまにいたるまでトップを走り続けたそのキャリアは、まさに生ける伝説といえるものでした。ドイツ出身の彼は、14歳でパリに移住。パリ・オートクチュール協会のファッションスクール(通称サンディカ)で学びます。その時の同級生にはイヴ・サンローランと日本のファッション教育の礎をつくった小池千枝がいました。16歳で国際羊毛事務局(現ザ・ウールマーク・カンパニー)主催のファッションコンクールで優勝。17歳でピエール・バルマンのアシスタントに。その後「ジャン パトゥ」、「クリツィア」、「シャルル ジョルダン」、「ヴァレンティノ」などで経験を積みますが、オートクチュールのデザインが評価されず一旦ファッションを離れ、イタリアでアートを勉強。キャリア初期は意外と苦労したようです。そして、「フェンディ」のデザイン・コンサルタントとしてファッション業界に復帰。「クロエ」のデザイナーを経て「シャネル」のデザイナーに就任。
フェンディでは54年、シャネルでは36年という長きにわたりクリエーションを紡いできたのです。フェンディとの長い蜜月はファッションブランドとデザイナーとのコラボレーションで世界最長といわれています。現在メンズウエア、アクセサリー、キッズウエア部門のクリエイティブ・ディレクターを務めるシルヴィア・フェンディがまだ子どもだった頃から同ブランドを支え、ローマの老舗毛皮ブランドを時代とともにアップデートしていったのです。死の数日前まで、2019秋冬コレクションショーの打ち合わせをしていたといいます。
シャネルにおいては創業者のガブリエル・シャネル亡き後、時代に取り残されつつあったメゾンを見事に再興。全女性が憧れるラグジュアリーハウスの地位を揺るがぬものとしました。
毎回驚かされるシャネルのランウェイセットを楽しみにしていたプレスは多いでしょう。印象に残っているのは、2014年秋冬スーパーマーケットコレクション。先行して発表された2014年春夏オートクチュールコレクション同様、足元はスニーカーがメイン。シャネルジャケットを着ていても靴はスニーカーを提案したのです。カラフルでポップ、そしてソールは少し厚め。これまで何度かラグジュアリーでもスニーカートレンドがありましたが、2014年秋冬のシャネルスニーカーは昨今のスニーカーブームにつながる嚆矢となったのではないでしょうか。
H&Mや西武百貨店のコレクションで、マスに向けてモードを発信。
頭が下がるのは、常に新しいデザイナーをキャッチアップしていたことです。エディ・スリマンの「ディオール オム」を着たいがために過酷なダイエットを敢行、「アタッチメント」や「ロエン」など日本ブランドのコレクションを購入。ある日本人プレスからは、グローバルでまだ認知度が低かった「サカイ」のジャケットを見事カールに見抜かれた、という話も聞きました。ファッションが本当に好きだったのでしょう。
痩せてからは白髪のポニーテール、高い襟の白シャツ、そこに巻かれるリボンもしくは大剣のタイ、手にはめられたグローブにクロムハーツ、そして細身のスーツという出で立ちがアイコンでした。よくよく彼の写真を見ると微妙に服装のディテールが異なっています。さまざまなブランドで自身のスタイルを着飾っていたのでしょうね。
また、ラグジュアリーだけでなく、「H&M」、「西武百貨店」などと低価格なコレクションを制作。クールでエレガントなモードをマスに広めました。
そのアティチュードは、本当にファッションを愛し、ファッションに愛されたデザイナーのものでした。死について彼は、「ただ消え去るだけ」とドキュメンタリー映画『カール・ラガーフェルド スケッチで語る人生』(2012年制作)で発言していますが、これは諸行無常なファッションの本質です。今日は黒がトレンドでも、明日は白がトレンドになる。モードとは常に新しく、古きは消えていくもの。その概念を体現するように葬儀もひっそりと行われ、灰燼に帰しました。まさに正真正銘のファッショニスタ。一度でいいからシャネルで本格的なメンズコレクションをつくってほしかったものです。