村上春樹の訳文が伝える、ゲッツが生きた時代の息遣い。

    Share:

    『スタン・ゲッツ 音楽を生きる』

    ドナルド・L・ マギン 著 村上春樹 訳

    村上春樹の訳文が伝える、ゲッツが生きた時代の息遣い。

    中安亜都子 音楽ライター

    ジャズ・サックス奏者のスタン・ゲッツと言えばなんといっても『ゲッツ/ジルベルト』である。1964年に発売されたこのアルバムをきっかけに、空前のボサノバ・ブームが巻き起こったことはあまりにも有名だ。

    ブラジルのシンガー&ギタリストであるジョアン・ジルベルトと作曲家のアントニオ・カルロス・ジョビン、それにゲッツによるこのアルバムからは、「イパネマの娘」の大ヒットが生まれた。ここでゲッツはくぐもったまろやかなテナー・サックスを披露しているが、この演奏こそが彼の名声を決定的にし、現在に至るまで数多くの人に記憶されている。

    彼の生涯を綴った本書はデータが実に詳細であることにまず驚く。翻訳は村上春樹。スムーズな訳文は音楽に造詣の深い氏ならではだ。
    ゲッツは早熟な才能の持ち主だった。14歳で既にプロの演奏家としてスタート。40年代のビッグバンド、50年代のビバップと、鋭敏な嗅覚を発揮して才能を活かせるバンドを渡り歩いてゆく。村上はあと書きでこう記している。「ゲッツはジャズ史を大きく塗り替えたというタイプの人ではない。(略)時代時代に応じて自らの魂を内側に掘り下げて深めていく個人的な音楽家であった」と。

    伝記本の執筆動機はさまざまなのだろう。著者は熱烈なゲッツのファンのようで、距離を置いた冷静な視線と言うよりは、徹底してファンの立場で書かれている。だからだろうか。『ゲッツ/ジルベルト』の録音時、ジルベルトがゲッツを嫌っていた事実にはまったく触れていない。それはさておき。
    ゲッツの生涯は、酒と麻薬の度を越した摂取の連続であった。破天荒な音楽家が生きた懐かしい時代。その息遣いが伝わる書でもある。


    『スタン・ゲッツ 音楽を生きる』 ドナルド・L・ マギン 著 村上春樹 訳 新潮社 ¥3,520(税込)