一家を襲った突然の悲劇は、果たして「運命」によるものか。

  • 文:今泉愛子
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『ぼくらが漁師だったころ』

チゴズィエ・オビオマ 著

一家を襲った突然の悲劇は、果たして「運命」によるものか。

今泉愛子ライター

ナイジェリア西部の町、アクレで暮らすアグウ家では、勤勉で信心深い両親のもと、6人の子どもたちが仲良く暮らしていた。子どもたちのうち、イケンナ、ボジャ、オベンベ、それから9歳の「僕」の4人は、15歳のイケンナをリーダーとしてまとまっていた。 

家族に暗い影が差し始めたのは、銀行勤めの厳格な父が1000㎞も離れた北部の街に転勤になり、離れて暮らすようになってからだ。4人は近寄ってはいけないと言われていた不吉なオミ・アラ川で釣りをするようになった。漁師になったのだ。 

かつて、この川は神と信じられ、住民は仲裁と助言を仰いだ。精霊が宿る川は、とても澄んでいた。ところが、ヨーロッパからキリスト教が入り、川は信仰と引き離され、邪悪な場となってしまった。川に行けば、両親にこっぴどく叱られる。それを知りながら、4人は6週間もそこへ通いつめた。 

そしてついに母が知ることとなり、彼らは転勤先から戻った父に鞭でしこたま打たれる。ここから、一家を襲う悲劇は加速していく。 

最初の犠牲者は、イケンナだ。川で出会った狂人アブルの不幸な予言に翻弄され、自分を見失う。兄弟が不穏な空気に包まれ、無邪気で快活だった子どもたちは、1人、また1人と自らの人生から脱落していく。なぜこの連鎖を止められないのか。 

ナイジェリアのイボ人は、誰もが生まれる前からもつ守護神のような存在を「チ」と呼び、自らの力で運命は変えられないと信じているという。しかし、この悲劇を「チ」だけのせいにしていいのか。不幸を跳ね返せずどんどん弱体化するアグウ家の姿は、民族対立が激化し衰退していく国家のようだ。イボ語とヨルバ語、英語を使い分け、原始宗教とキリスト教が入り混じるナイジェリア社会の不安定さを体感する小説だ。

『ぼくらが漁師だったころ』

チゴズィエ・オビオマ 著 
粟飯原 文子 訳 
早川書房 
¥2,484