リアルでの公演・展示が難しくなった美術や音楽、伝統芸能。そんな芸術活動がオンライン化へ踏み出す中、撮影コンセプトや映像技術に捻りが加えられ、これまで見たことのない新たなコンテンツが生まれてきている。その試みが、凸版印刷とアート専門誌『美術手帖』が仕掛ける「サバイブのむすびめ」だ。このプロジェクトの実態や、その背景にはなにがあるのだろうか。
世界的に新型コロナウイルスの感染拡大が続く中、これまで入場料収入を中心に経営を維持してきた文化芸術団体、劇場、博物館などの事業者は、ジャンルや規模の大小にかかわらず、みな一様に終わりの見えない苦境に立たされている。この状況を打開していくための施策として、文化庁が2020年から展開しているのが、文化芸術収益力強化事業だ。同事業の10ある事務局のひとつとして採択された凸版印刷は、リアルでの公演・展示が難しくなったコンテンツをオンライン化、バーチャル化することで、新たな表現と収益化モデルの創出へとつなげていく実証を行っている。そこで見えてきたソリューションやノウハウを、同じような問題を抱える事業者たちにも共有していくために、凸版印刷はアート専門誌の『美術手帖』と「サバイブのむすびめ」という新たなプロジェクトを立ち上げた。その中心人物である凸版印刷の髙羽将人さんと寺林真綸さん、そして『美術手帖』の田尾圭一郎さんに、このプロジェクトの目的と存在意義を聞いた。
オンライン化により、いま新たなアート表現が生まれている。
多様な文化芸術活動の収益力強化について考え、議論する場を提供する目的でスタートしたのが「サバイブのむすびめ」。これまでに5回の無料トークイベントを六本木蔦屋書店のラウンジで開催し、そのすべてをオンラインでも配信してきた。凸版印刷が事務局を行う収益力強化事業では、総計60件以上の文化芸術団体に協力してもらい、さまざまな取り組みを展開している。その中からサバイブのむすびめは、各業界のロールモデルとなるような好事例をピックアップし、ディベートの題材としている。
文化庁からこの事業を受託し、公募によって集まった各事業者とのプロジェクトを企画、進行している凸版印刷ソーシャルイノベーション事業部の寺林さんは、今回の収益化事業の根底にあるコンセプトを説明する。
「このプロジェクトでは、できるだけ各業界に共通する課題を取り上げて、それを解決するための実証実験のプロセスとソリューションを公開するカタチを取っています。我々が支援できる事業者はほんのひと握りにすぎませんが、この取り組みが他の事業者が新しいチャレンジに一歩踏み出すためのきっかけや、アイデアソースになることを願っています」
伝統芸能、演劇、音楽、舞踊、美術館、博物館など、それぞれの業界にはしきたりや儀礼が必ず存在するが、最新のデジタル技術やアイデアをもつ制作サイドが、その規則や習慣に精通していることはほとんどない。たとえやるべきことがわかっていたとしても、異なる文化や価値観をもつもの同士が直接協議した場合、意思疎通は少なからず困難なものとなるだろう。そこで必要となってくるのが、二者の間に立つ通訳兼プロデューサーとなる人物だ。古くから文化、芸能に携わり、各業界と太いパイプを築いてきた凸版印刷の文化事業推進本部が、各プロジェクトの橋渡し役として活躍している。そのひとりである髙羽さんは、普段接することのない二者の協業にこそ、新たな価値が生まれる可能性を見出している。
「特に伝統芸能の場合は、コンテンツをオンラインで発信した場合にいままでの観客とは別の客層を獲得できないと、収益化につなげることはできません。一般の土俵で戦えるコンテンツをつくり出すためには、事業者と制作側が互いに歩み寄って、従来と異なる新しい表現方法を見つける必要があります。今回、奇しくもコロナ禍という状況でほとんどの事業者がこれまでと同じことをしていても駄目だという意識をもち、自身の殻を破って一歩踏み出そうとしているタイミングだったこともあり、その歩み寄りはどこも円滑に進みました」
このプロジェクトの期間中、5回のトークショーを開催した『美術手帖』の田尾さんは、実際に取材した5組の事業者の事例を見て、収益力強化の手応えを感じている。
「このプロジェクトの内容は、いままさにアーティストや演者たちが課題に感じていることなので、僕らメディアもただ他人事として報じるだけではなく、媒体のプラットフォームやネットワークを活かしながら、もっと主体的に参画すべきだと思いました。今回5組の事例を取り上げた中で、それぞれの事業者に共通していたのが、変えるべきところと変えるべきではないところの見極めや線引きが非常にうまくできていたところです。たとえば能楽の事例では、演者たちの表現や衣装はまったく変えず、その舞台を厳島神社に変えて映像を入れるだけで、能楽を知らない若者でも楽しめるムービー作品のようなコンテンツに仕上がりました。普段は能楽のチケットがどこで買えるのかすらわからなくても、こうやってネットコンテンツとして自宅で気軽に観られる機会があれば、『なんかかっこいいじゃん』って、興味を抱くきっかけが生まれます」
さらに田尾さんは、「サバイブのむすびめ」というプロジェクト名に込めた思いを語った。
「このコンセプトは人類学者のティム・インゴルドによる『ラインズ 線の文化史』という本を参考にしていて、なにかとなにかがコラボレートする時、その二者が出会った地点をゴールとするのではなくて、他者と出会ったことで得られた経験や知見をもって、その後また、それぞれが自分たちの道を進んでいくことが重要だという考え方です。文化や芸能の支援も、一回の打ち上げ花火で終わってしまっては、根本の改善にはつながりません。新しい試みによって導き出された成功事例をプロトタイプに、業界全体が少しでも活性化し、そして今後もサステイナブルに歩みを続けていける道筋を考えることが、なによりも大事なことだと思います」
デジタル化により生まれた、特別なコンテンツ
トークイベントVol.1のテーマは、オンライン上で恐竜の骨格を360度閲覧できるVRコンテンツ「ディノ・ネット デジタル恐竜展示室」を開設した国立科学博物館の取り組み。群馬県立自然史博物館、むかわ町立穂別博物館、北海道大学総合博物館などと連携し、各博物館が収蔵する代表的な恐竜化石の骨格標本等をデジタル化してオンラインで閲覧できるようにすることで、新たな収益基盤、ネット配信による情報発信、デジタルアーカイブデータによるオンライン展示手法などを提案した。日本各地の骨格標本を手元のデバイスで閲覧できる上に、リアルでは見ることのできないアングルにも自由に視点を変えられるという、通常の展示では体験できないスペシャルなコンテンツとなった。
「サバイブのむすびめ」トークイベントVol.2のテーマとなったプロジェクトが、公益社団法人能楽協会によるVRを活用した新たな鑑賞体験の創出だ。このプロジェクトの制作に当たった髙羽さんは、コンテンツ化におけるコンセプトを語った。
「単純に能を360度VRで観せるだけでは、オンラインのコンテンツとして新しいオーディエンスには届きません。重要なのは、能楽堂で行うリアルな公演とは差別化された、オンラインならではの特別な企画を考えることです。そこで今回は、世界文化遺産である国宝・厳島神社の能舞台で、無形文化遺産である能を上演し、その様子をVRで撮影しました。上演した『羽衣』と『船弁慶』は、どちらも海に関わる演目です。ちょうど能舞台のまわりに潮が来る満潮時に上演することで、能楽堂では再現することができない壮大なスケールの借景にも成功しています。旅行や行楽に行きづらい状況下ということもあり、オンラインで風景を楽しめる仕掛けは、幅広い層に楽しんでいただけたと思います」
リアルな会場にはリアルならではの楽しみや醍醐味があり、オンラインのコンテンツでそれを再現する必要はない。オンラインならではの仕掛けにより表現方法が多様になれば、年齢、性別、国籍を超え、これまで以上に多くの人たちに魅力を伝えることができるかもしれない。社会全体が同じ課題を共有しているいま、その解決策となるアイデアも社会全体で共有し、ともにサバイブする術を考えていくべきだろう。
問い合わせ先/サバイブのむすびめ