「ポルシェ911カレラRS」は、菅井汲が愛した特別な一台だった(前編)

  • 写真:小野祐次
  • 文:深萱真穂
  • 協力:広島県立美術館
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菅井汲(すがいくみ、1919~96年)はパリへ渡った日本人画家のなかで大きな成功を収めたひとりだ。図形的な抽象画で一世を風靡した画家は、高速道路を時速250kmで疾走するスピード狂でもあり、愛車はポルシェ。なかでもスポーツカー好きなら誰もが憧れる1973年式ポルシェ911カレラRSを新車で購入し、パリ市内はもちろんのことフランスのオートルートでも極限のドライブを楽しんだ。

そのクルマは広島県立美術館(広島市中区)に収蔵されている。わたしは「SUGAÏのポルシェに会いに行く。」と題する記事を2011年に雑誌で紹介。そして今回 Pen Onlineの特別企画でふたたび、広島県美に保存されている菅井のカレラRSに会いにいった。「ナナサンカレラRS(正式には1973年式ポルシェ911カレラRS)」は大きく「ツーリング」と「ライトウェイト」に区分される。菅井が所有し最後まで愛したカレラRSはわずかに200台しか生産されなかったライトウェイトモデル。あらためて車両の詳細を調べ、親交のあった人たちの言葉に耳を傾けるうち、亡くなるまで手放さなかった愛車への想いを以前より深く理解できるようになった。創作にも多大なインスピレーションを与えた特別なポルシェと画家の物語を、ここに再び呼び起こしたい。

スピードに憑りつかれ、大クラッシュから奇跡の生還を遂げる。

菅井の1993年の作品『カドミウム・レッド 31.32』(広島県立美術館所蔵)。白地に、道路のカーブを思わせる赤い図形を配し、チェッカーフラッグ状の市松模様を添える。
菅井は愛車も作品に引用した。カレラRSの写真に図形的なモチーフをコラージュした75年のシルクスクリーン作品『ポルシェ』(広島県立美術館所蔵)。

菅井は現在の神戸市東灘区に生まれた。漢薬の卸問屋を営む実家は裕福で、妹のひとりは内閣官房長官や外務大臣を歴任した木村俊夫に嫁いでいる。菅井は心臓弁膜症で小学6年生から病床に臥し、大阪美術学校も中退。阪急電鉄に入社し事業部宣伝課でポスター制作に携わった。1952年にパリへ渡り、禅の墨蹟を思わせる油彩画が注目を集める。チューリヒやニューヨークでも個展を開き、国際的な人気画家への階段を登った。

1960年、パリ南端のアミラル・ムーシェ街にある詩人アルコスの旧宅へアトリエを移し、初めての自家用車カルマン・ギアを購入。ほどなくグレーのポルシェ356に買い替えた。作風も、図形的な色面を鮮やかなコントラストで塗り分ける抽象画へ変化する。ヴェネツィアやサンパウロのビエンナーレに出品し評価は一段と高まった。

67年、新発売のポルシェ911Sタルガを購入し、赤い車体を黄色の斜線で飾った。同年9月、ユーゴスラビアでバカンスを楽しんだ帰路に大事故が起きる。前の車を抜こうとした菅井は、対向車との衝突を避けるためハンドルを切り、車ごと道路脇の畑へ転落。助手席の夫人は投げ出され腕や背を骨折、菅井は首の骨を折ったが一命を取り留めた。

入院は2カ月に及び、運動や発汗の機能に後遺症が残ったが、ドアを開ける力もないうちに菅井は黄色い911Sタルガを買う。68年に再びヴェネツィア・ビエンナーレに出品し、翌年の国立近代美術館の開館に際して幅16mの大作を手がけるなど画業も華々しく展開した。そして購入した4台目のポルシェが、広島に保管されている白い73年式カレラRSだ。

「8576YX75」のナンバーはパリで菅井が走らせていた当時のまま。日本ではナンバーを取得していない。
カレラRSの後部。スポイラーの下のステッカーについては後編で触れたい。

シャシナンバー「9113600233」、72年に製造された正真正銘のライトウェイト

車体後部に搭載されたカレラRSのエンジンは、911シリーズ伝統の空冷水平対向6気筒SOHC。排気量は2687ccに拡大され、6300回転で210馬力を発揮する。バンパーとエンジンルームの境には白いテープが目張りのように貼られていた。

ポルシェ911の73年式カレラRSは、グループ4レースに参戦するため72年秋のパリ・オートショーで発表した限定生産車だ。カレラはスペイン語でレースを意味し、RSはレーシングスポーツ(ドイツ語Renn Sport)の略。当時市販していた911Sの2.4ℓエンジンを、ボアの拡大により2.7ℓとし210馬力まで出力を高めた。車体後部に「ダックテール」と呼ばれる大きなスポイラーを備える。グループ4レース参戦資格(ホモロゲ―ション)を得るため当初500台の生産を計画し、最終的に1580台が製造された。

このうち1308台は911Sとほぼ共通の内装をもつツーリングと呼ばれる仕様で車重は1075kg。シートも快適な豪華仕様のモデルだった。いっぽう、200台しかつくられなかったライトウェイト仕様は、後席を取り払い、ボディの鋼板や窓ガラスを薄いものに変え、遮音材を省き、内装も公道仕様としては極限まで簡素にした特別モデルで車重は960kgまで削られている。特別なモデルで人気のあったカレラRSのほとんどがツーリング仕様なのは、値段が大きく変わらないなら豪華仕様をチョイスしようという理由から。ライトウェイトモデルは、希少で現在の名だたるオークションにおいてもツーリング仕様との間で落札価格に大きな違いがある。

55台はレーシング仕様のRSRで、エンジンのボアをさらに広げ、排気量2.8ℓで300馬力を絞り出す。前輪230㎜、後輪260㎜とライトウェイト仕様より幅広のタイヤを履き、オーバーフェンダーが外見上の迫力を増す。

菅井のカレラRSのシャシナンバーは「9113600233」で、フランス向けのライトウェイト仕様として72年11月に工場から出荷された。タイヤは現在、前輪205/55ZR15、後輪225/50ZR15で標準(前輪185/70VR15、後輪215/60VR15)より幅広になっている。前後フェンダーの膨らみもRSの標準モデルより幅広く、まるでRSRのようだ。70年代にパリで菅井のアシスタントを務めた美術家のあまのしげさんは「太いタイヤを履かせるため菅井は納車後にフェンダーを改造して広げた」と証言する。ジョン・スターキー著『ポルシェ911カレラRS&RSR』(小川文夫訳)にも「いったん完成したRS2.7からRSR2.8へと改造されたり、その後に同じパーツを使って特別に造られたクルマも存在する」とある。このカレラRSはレーシングモデルの面影を追った改造が施され、愛機に生命を託して疾走した菅井の思い入れを物語る。

内装は黒一色でスパルタンな雰囲気。大径の5連メーターやハンドルの形状は911シリーズの文法に則る。ハンドル中央の▽マークは、ラリー仕様のマシンに倣って菅井が加えたものか。
時速300kmまで刻まれたスピードメーター。『Road Test』誌の73年4月号に掲載されたカレラRSライトウェイト仕様のテスト記事で最高速は153mph(246km/h)と報告されたという。タコメーターのレッドゾーンは7300rpm。ハンドルやインテリアの状態から日本に来てから20年以上動かされていないことがうかがわれる。
フロントのトランクにはスペアタイヤのほか、モチュールの古いオイル缶やガス欠に対応するポンプが残されている。菅井が用意したのだろう。カーペット下には緊急用のスペアタイヤも備わる。
フロントガラスの右端に車検や保険のステッカーが縦に4枚貼られている。一番上の丸いステッカーは1996年を示すとみられる。菅井は同年、一時帰国中に急逝した。

シャシナンバーは9113600233。サービス手帳の記載と合致。ドイツ、ポルシェAGの記録によると「72年11月13日にラインオフしたグランプリホワイトのフランス仕様」とのこと。もちろん正真正銘の73カレラRSだ。