若者の街、渋谷の原点は百軒店にあった。【速水健朗の文化的東京案内。渋谷篇⑥】

  • 文:速水健朗
  • 写真:安川結子
  • イラスト:黒木仁史
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スクラップ・アンド・ビルドを繰り返す東京を、ライターの速水健朗さんが案内。過去のドラマや映画、小説などを通して、埋もれた歴史を掘り起こします。駅周辺の大規模開発が進む渋谷は、これまでも時代によって印象を大きく変えてきました。今回も引き続き「渋谷は子どもの街か、大人の街か」という切り口でこの街をひも解きます。

速水健朗(はやみず・けんろう)●1973年、石川県生まれ。ライター、編集者。文学から映画、都市論、メディア論、ショッピングモール研究など幅広く論じる。著書に『東京どこに住む?』『フード左翼とフード右翼』などがある。

6回にわたって、「子どもの街か、大人の街か」というテーマで渋谷の話をしてきました。最後に速水さんが向かったのは、道玄坂から横道に入った百軒店(ひゃっけんだな)でした。どうやら、ここに渋谷の街の原点があるようです。名曲喫茶ライオンやカレーのムルギーなど、老舗が残るこの場所は、かつてはどのような姿だったのでしょうか?


前回【渋谷篇⑤学生運動世代が眺める、渋谷の変貌。】はこちら

映画館にボウリング場、娯楽の中心だった百軒店。

蔵原惟二の監督デビュー作であり、日活ニューアクション最後の傑作。『不良少女 魔子』(監督:蔵原惟二 1971年 日活 制作、販売元:Happinet(SB)(D))写真:青野豊 

渋谷の駅前交差点がスクランブル方式になったのは、1973年。その少し前の渋谷が『不良少女 魔子』に描かれている。渋谷の街が若者の街になったのは、パルコや公園通り以降という印象が強いが、実はそれ以前から。

『不良少女 魔子』は〝ずべ公モノ”という分野に属する。女の不良番長=ずべ公である。スケバングループ同士がケンカをしたり、違法な薬に手を出したり、ゴーゴークラブで踊ったり、不純異性交遊にいそしんだりする。とはいってもそこは日活がつくるのだから、ファッショナブルにしかなり得ない。魔子を演じるのは夏純子。ロングポイントの70年代風の襟が特徴的な白シャツに、スリムなデニムのファッションで、スタイルのよさが際立つ。

冒頭場面には、ボーリング場が登場する。不良少女たちがボウリング場のレーンの裏の機械室で男を恐喝し、殴って蹴って金を奪う。グループの中心にいるのが魔子。次の場面では魔子がビルの外壁の階段を駆け下り、ひとりでボウリング場の外に出る。ここでストップモーションになり『不良少女 魔子』のタイトルが入る。かっこいい。タイトル明けでは、当時の渋谷の駅前の風景が映る。交差点の周辺が看板だらけというのはいまと変わらない。渋谷のシンボルのひとつ、三千里薬品の看板もすでに見える。だが、駅自体の壁面には広告、看板の類がない。交番脇の駅壁面にあるハチ公のレリーフもない。駅は単体の駅として存在し、のっぺりとしている。それが現在との一番の違いである。

1950〜60年代、3つの映画館が向き合って立っていた場所も、現在はマンションとなっている。
テアトルハイツ、テアトル渋谷、テアトルSSと3つの映画館が盛り上がっていた百軒店。写真:東京テアトル

冒頭のボウリング場は、渋谷の百軒店にあったテアトルボウリングセンター。外の場面で看板が映っている。テアトルボウリングセンターの建物は、もともとは映画館だった。百軒店には、3つの映画館が向き合っていた。テアトルハイツ(1950〜68年)、テアトル渋谷(47〜68年)、テアトルSS(51〜74年)(東京テアトル「沿革」より)。このうち、テアトルSSは途中でストリップ劇場に転換される。ボウリング場になるのは、テアトルハイツ。魔子が螺旋階段を下りてくるビルだ。現在は、マンションになっている。

1950年代に石原裕次郎の太陽族映画でヒットを飛ばした日活は、若者の文化や風俗を描く青春映画を10年以上つくり続けた。その最後が、71年の『八月の濡れた砂』とこの『不良少女 魔子』だった。これ以後の日活は、ロマンポルノ専門の製作会社に移行。映画の斜陽化とボウリングブームは重なっていた。日活の映画にボウリングのシーンが描かれたのは、宣伝のためでもあった。当時の日活は、レジャービルを数多く所有しており、ボウリング場も入居していた。それならボウリング場を恐ろしい不良少女のたまり場として描いてはいけない気もするが、まあ、おおらかな時代のよさである。

道玄坂小路から緩やかな階段を上って百軒店へ。途中、風俗店やラブホテルも多く、少しケバケバしい雰囲気も漂っている。

現在の百軒店といえば、風俗店とラブホテルが多い地域。中心街という感じではない。だが、かつてはこの辺りが渋谷で最も栄えていた。開発を仕掛けたのは、西武の前身である箱根土地で、関東大震災後のこと。映画館や劇場を中心とした華やかな場所として発展した百軒店だが、一旦は空襲で焼け野原になった。戦後、駅前に闇市が広がった時代に、駅から離れたこの地はまた違った発展をしたのだ。

百軒店が再開発されずに残っているのは、大通りに面していないからだろう。クラシック喫茶のライオン(1926年〜)、カレーのムルギー(1951年〜)など、古くから続く有名店は多い。しかし、百軒店という場所を知らなければ、たまたまここを通りかかる機会も少ない。百軒店への行き方には説明が必要かもしれない。最も簡単な行き方は、渋谷駅から道玄坂を上り、その中腹の右側に「しぶや百軒店」と書かれたアーチからのルート。また、道玄坂小路から緩やかな階段を上っていく行き方もある。道玄坂小路は、109の裏にある小路で、台湾料理店の「麗郷」がある並び。もうひとつは、クラブ・エイジアやオー・イースト、ウェスト、ドクタージーカンズなどが並ぶランブリングストリート(そう呼ぶ人を見たことはないが他に呼び名もない)から行く方法もある。 

1926年創業の名曲喫茶ライオン。店内ではクラシック音楽が流れ、おしゃべりは禁じられている。
1951年創業のカレー屋ムルギー。名物は、高さのある盛り付けが特徴的な「玉子入りムルギーカリー」だ。

安藤組が残した、ヤクザとチンピラの構図。

電気機関車が貨物を牽引していた渋谷の貨物駅。1980年に廃止され、埼京線ホームとなった。写真は、1990年に跡地として撮影されたもの。写真:東急株式会社

映画に話を戻し、魔子と仲間たちによる悪行三昧に触れておこう。ディスコで見つけた男にマリファナを吸おうと誘惑し、仲間のいる場所に連れて行ってだまし討ち、金品を奪う。また、集団万引の女子高生たちのグループを線路脇に引きずり込んで打ちのめす。この場所は、当時の山手貨物線の脇だ。渋谷にはかつて、1980年に廃止された貨物駅があった。いまの埼京線ホームの場所である。彼女たちの悪行の続きを記そう。渋谷の街中を大声で「たんたんタヌキの金玉は〜♪」と大合唱して歩く。微笑ましい不良行為である。一方で、彼氏に5度妊娠中絶を強要された末に死んだ女不良仲間を笑いものにしたりもする。こちらは質の悪さが全開。だが、これは不良少女たちの奔放な悪行が、自由そうに見えても、見た目ほど自由でないことを物語っている。不良少女は、不良少年と違って、上がりがない。悪事を尽くしても、プロのやくざにはなれないのである。 

藤竜也演じる魔子の兄は、渋谷を牛耳るやくざの安岡組の組員だ。そんな後ろ盾があるから魔子たちは好き放題にやっている。だが、渋谷は若者の街に変貌しつつあり、その中で新しい不良少年たちが台頭しつつある。魔子のボーイフレンドは、その不良グループの一員である。不良少年のグループは、やくざと真っ向からぶつかり合う。兄とボーイフレンドの板挟みとなる魔子。渋谷の街をめぐる男たちの世代間闘争に、彼女たちは巻き込まれていくのだ。

1966年の百軒店入り口。現在とは異なるアーチが立っており、奥にはバーが軒を連ねている。写真:東急株式会社

話は変わるが、百軒店が栄えていた1960年代前半の様子は、安西水丸のイラストエッセイ集『東京美女散歩』に書かれている。「昭和三十年代、このあたりにはジャズ喫茶が多かった。『オスカー』、『DUST』、『SWING』、『BLACK HAWK』(これは新宿の『DIG』系)、『ありんこ』、そして『プラネット』(この店はその後『音楽館』と名称を変える)などだ。まさにジャズ喫茶街といっていい」。
真っ先に名前の挙がった「オスカー」は、一番大きな店で、大型スピーカーが置かれていたという。安西は、テーブルがスピーカーに向かって並んでいる配置が気に食わなかったと書いている。いわんとすることはわかる。ジャズ喫茶は、音楽を聴かせる店だが、聴かせてやるという圧力も客としては気に食わないということだろう。

60年代、ジャズ喫茶街として知られる百軒店。映画館もまだ賑わいを見せている時代だった。写真:東急株式会社

ボウリングと違ってジャズ喫茶は、圧倒的に都市文化である。そして、一部のうるさいジャズ好きのための場所でもあった。モダンジャズには、ファンの内輪の決まりごと(コード)がある。たとえば、ジャズを“ダンモ”と呼ぶ。私語禁止が徹底されていた店もある。本を読むのはOKだが、体を動かすのはタブー。チャーリー・パーカーが軽んじられ、コルトレーンは神格化されやすい、などといった具合である。

「百軒店の裏の路地を曲がると、コルトレーンの吹くサックスの音が、その辺りまで洩れてきた」という描写があるのは、1984年に刊行された荒木一郎の小説『ありんこアフター・ダーク』だ。主人公は高校生。クラスメートの浅井と一緒に百軒店のジャズ喫茶に通う日々。実在の「ありんこ」やその近くにあった「オスカー」などが登場する。安西が「オスカー」が好きでなかったと書いているが、この小説でも「オスカーに行く客なんて、ロクな奴じゃない」というフレーズが出てくる。人気店ではあったが、一部のジャズファンには評判がよくなかったのかもしれない。

ジャズ喫茶「ありんこ」は、荒木が実際によく通った店だったようだ。「痩せぎすで色白」な「こけし人形にも似た夫婦」がやっていた店だと描写される。席にはノートや眼鏡が置かれていて、みなが席取りをしている様子が描かれる。常連ごとに決まったポジションがあったのだろう。めんどくさそうな世界だが、背伸びしたい盛りである高校生の主人公は、そんなジャズ喫茶とモダンジャズの世界に惹かれ、入り込んでいく。

ヤクザの組長を務めた後に映画界のスターとして活躍という、異色の経歴をもつ安藤昇。(『映画俳優 安藤昇』山口猛 ワイズ出版映画文庫)

荒木一郎の『ありんこアフター・ダーク』に「安藤組が解散して、まだ一年とたってない渋谷」という描写が登場する。安藤組は、1952年より渋谷や新宿を根城にした暴力団。トップの安藤昇は、若くしてこの世界でのし上がっていった。雪駄よりもコードバンの革靴、ダボシャツ姿でなくネクタイ、ドスよりも拳銃を好んだ(『激闘! 闇の帝王 安藤昇』大下英治)。安藤組は、渋谷の戦後に欠かせない存在だ。だが活動していた時期は案外短い。安藤本人が横井英樹銃撃事件の主犯として逮捕され、その服役中にナンバー2でケンカ自慢の花形敬も殺された。組織としての勢力を失った安藤組が解散を宣言したのは、東京五輪が開催された1964年のこと。安藤は後に役者として成功する。

『不良少女 魔子』には、ゴーゴークラブは出てくるが、ジャズ喫茶は描かれていない。一方、昔ながらのやくざを相手に、不良少年たちが抗争を仕掛ける物語には、かつての安藤組の姿が重なる。この連載で取り上げた、渋谷を舞台にした映画『チ・ン・ピ・ラ』にせよ『不良少女 魔子』にせよ、昔ながらのやくざと新世代のチンピラが争う構図になるのは、安藤組の記憶があるからだろうか。大人の街か子どもの街かという対比で渋谷の歴史に触れてきたが、安藤組が闊歩した時代の渋谷に、その辺りのルーツがあるのかもしれない。

道玄坂の中腹に現れる「しぶや百軒店」のアーチ。風俗店に囲まれているものの、この奥に渋谷の若者文化を育んできた名残が見える。

映画の街からジャズ喫茶の街になり、ボウリング場の街になった百軒店。その辺りまでの街の変遷は掴めるのだが、80年代以降に、風俗店やラブホテルの街になる経緯はよくわからない。渋谷の繁華街としての要素は、その後公園通りなどに移っていく。百軒店は、古い渋谷の名残を残す唯一の界隈になりつつある。その百軒店の一番奥まったところに千代田稲荷神社があり、その斜め向かいに「Mikkeller Tokyo」という立ち飲みのクラフトビール専門店が2015年にオープン。再開発で一気に変化することはなさそうな場所だ。それが街の価値ともいえる。たまにビールを飲みながら、この辺りのちょっとした変化を眺めていくのは楽しいかもしれない。

2015年にオープンした、デンマーク発の「Mikkeller Tokyo」。2階の席でも飲むことができる。

【渋谷エリア】

「子どもの街か、大人の街か」という切り口で、渋谷の街をひも解いてもらいました。

まずは、トレンディドラマの舞台としても描かれたスペイン坂。この通りの「オクトパスアーミー」に、アメリカンカジュアル志向の高校生を中心とする”渋カジ族”(①)が現れました。

続いて、渋谷・西武百貨店の別館である渋谷西武シード館(②)。売り場「カプセル」は、コム デ ギャルソンや山本寛斎、イッセイミヤケなどの名を広めた伝説的ショップでした。

公園通りにはかつて山下達郎の楽曲の中にも登場していた、「ミスタードーナッツ 公園通り店」(③)がありました。多くの人にとって、公園通りのシンボルだったかもしれません。

来年3月の閉店が決まった「東急百貨店東横店」(④)。百貨店の華だった屋上が映画やドラマの舞台としてよく選ばれていた時代もありました。

他の地域にない文化施設を、という意図をもって手がけられた「東急文化会館」(⑤)は、2000年代に渋谷ヒカリエに変わっています。目印のプラネタリウムも消えてしまいました。

そして、パルコ誕生前の渋谷の中心は、老舗喫茶店などがいまも残る百軒店でした。テアトル系列の映画館(⑥)が3つ向かい合い、賑わっていたようです。