死を想い、生を表現する。巨匠クリスチャン・ボルタンスキー、日本最大規模の回顧展『Lifetime』を見よ。

  • 写真:齋藤誠一
  • 文:赤坂英人
  • 動画ディレクション:谷山武士
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アーティスト、クリスチャン・ボルタンスキーの個展『クリスチャン・ボルタンスキー ―Lifetime』が東京・国立新美術館で開催されています。約半世紀にわたって制作された作品が一堂に集ったこの機会に、アーティストとしての原点を探るべくインタビューを行いました。

展覧会の終盤近くに構成された作品『ミステリオス』(2017年)を座って見るクリスチャン・ボルタンスキー。「展覧会は考察の場である」と彼は語ります。

自らを「空間のアーティスト」というクリスチャン・ボルタンスキー(1944年~)は、現代のフランスを代表するだけでなく、今日のヨーロッパを代表するアーティストです。その彼の日本では過去最大規模となる本格的な回顧展が、東京・国立新美術館で開催されています。展覧会のタイトルは『 Lifetime(ライフタイム)』。生の時間、人生、生きている時など、「ライフタイム」とはシンプルな言葉ですが、そこにはいくつもの意味が重層しているようです。



相反する真理を、同時に語りかける作品。

会場の入り口と出口に置かれた『出発』『到着』(ともに2015年)は、「人生には始まりと終わりがある」という哲学を物語っています。どちらがどちらの意味か、人それぞれのようです。写真は『到着(ARRIVEE)』。

1944年のパリに生まれたボルタンスキーは、1960年代後半から短編フィルムを制作。その後、写真と積極的に関わるようになり、ドキュメントやビスケット缶などの日常品を組み合わせた人間の「記憶」に関わる作品で注目を集めました。80年代以降は、少年少女が写ったモノクロの肖像写真と電球を組み合わせ、『モニュメント』と題した祭壇のようなインスタレーション・シリーズを制作。一作ごとにそれを発展させていきました。また、大量の古着を使った大掛かりなインスタレーションも発表しています。

今回の東京での展覧会でもそうですが、こうした彼の作品群は、宗教的なイメージだけでなく、不在となった無数の歴史上の人々の記憶や、死者のイメージを想起させます。さらにその一部は第二次世界大戦での、ナチス.・ドイツのユダヤ人強制収容所での大量虐殺という、おぞましい記憶と歴史を想起させるものとして、美術という文化ジャンルを超えて、また国境をも越えて、世界的に大きな話題となりました。また、ボルタンスキー自身もユダヤの家系です。

小さい電球で囲まれた青い『コート』(2000年)。多くの人々の写真がジグソーパズルのようにまとめられた『青春時代の記憶』(2001年)、時系列を無視して自身のポートレートを並べた『自画像』(2008年)など、複数の作品が同一空間に展示されています。

微妙な光と影によって構成されるボルタンスキーの作品は、私たち人間の記憶や歴史、死や不在などをテーマにしたものでしょう。それは、展覧会場のどこを歩いていても感じられることです。矛盾するようですが、それはまた、私たちの生と存在を強く思い起こさせます。ラテン語の「メメント・モリ」ではありませんが、彼の作品は「死を思え」と同時に「生を思え」と言っているようです。ネオンサインの『到着』と『出発』の作品のように、ボルタンスキーの作品は、ものごとの光と影、明と暗の真理を同時に語りかけてきます。人生を一枚のコインに喩えるならば、本来同じ平面上にはない表と裏という真理を、同時に私たちに語ってくれているように思います。

白い紐でできたスクリーンに7歳から65歳までのボルタンスキーのイメージが投影され、変化し続ける『合間に』(2010年)。見上げたところにあるのは、ボルタンスキーの心臓音に合わせて電球が明滅する『心臓音』(2005年)です。
今回の東京展のために新たに制作された『幽霊の廊下』(2019年)。ヨーロッパに古くからある影絵のバリエーションであり、作者の表現主義的感受性を見せる、新たな展開です。
切り取られた窓から見えるのは、揺れ動く人形が壁に投影された『影』(1986年)。

今回の展覧会では、写真、書籍、電球、衣類など多様なメディアを使った初期の作品から最新作まで、半世紀にわたって制作された47点を一挙に紹介しています。「展覧会をひとつの作品のように見せる」というボルタンスキーが構成した会場を歩き、彼のインスタレーション空間を味わうことができるのです。

展覧会の開幕直前、彼にインタビューをすることができました。彼に聞いたのは、いわゆる美術史的なことではなく、きわめて初歩的なことでした。しかし、彼の答えはボルタンスキーらしく、根源的という意味でラディカルなものでした。

パリ解放の直後に生まれ、戦争に影響を受けた幼少期。

代表作といえる『モニュメント』シリーズの一作品(1986年)の側に立つボルタンスキー。会場の中間の空間には、『モニュメント』シリーズの作品が集めらています。

―― 1944年9月6日、パリのお生まれです。子どもの頃の、最初の記憶はなんでしょうか。

ボルタンスキー 最初の記憶というのは、いつも人から聞いたことが多いので、いつも嘘が多いです。私の公式な最初の記憶というのは国境を越えているところで、税関の部屋で座っています。でも、本当かどうかは、わかりません。

クリスチャン=リベルテ、というのが本当の私のファースト・ネームです。こうやってリベルテという名前がついているのはフランスでも普通ではなく、珍しいこと。なぜなら私はパリ解放の直後に生まれたからです。パリの街ではまだ戦闘があり、おそらくパリ解放から2日か3日経った後だったと思います。母は私を病院で産むことができず、私は自宅で生まれました。父と兄が手伝ってくれて、なんとか無事に私を産むことができたのです。私は本当に「戦争」とつながりのある子どもです。

中央が『聖遺物箱(プーリム祭)』(1990年)、右『小さなモニュメント』(1986年)、左『シャス高校の祭壇』(1987年)。
『モニュメント』(1985年)。『モニュメント』シリーズの最初期の作品。写真の子どもたちは聖なる存在のようです。

―― 戦後のパリでは、どんな少年時代を過ごされましたか。

ボルタンスキー 私たち家族には、大きなトラウマがありました。戦時中、父はユダヤ人として狩られることを恐れて2年間、床下に隠れて生活していたのです。戦後になっても、両親の知り合いはみな、ナチスの強制収容所での大虐殺「ショア(Shoah)」の恐怖を伝える語り部でした。両親は「ショア」がいかに恐ろしいものであるかということを、よく話してくれました。父は医者でしたが、父も母も、外部に対する恐怖をずっともち続けていました。あまりにも長い間追われていた存在だったために、離れ離れになる恐怖、世界に対する不安を戦後もずっともち続けていました。家族が引き離されるのを非常に恐れていたので、いつも一緒にいました。大きな家に住んでいたのですが、家族全員でひとつの部屋で寝ていたのです。私が初めてひとりで外の道を歩いたのは、18歳になった時でした。

―― ということは、子ども時代は学校には行かなかったということですね。

ボルタンスキー 学校へは行きませんでした。試験を受けたこともありません。家で独学をしていました。

『死んだスイス人の資料』(1990年)。新聞の死亡告知欄から切り取ったスイス人の写真がビスケット缶に貼られています。
『ヴェロニカ』(1996年)。ヴェロニカとは、十字架を背負って苦しむキリストに顔をぬぐうヴェールを捧げた聖女の名前。半透明の布には、女性の顔が写されています。

―― アートに興味をもつきっかけは、なんだったのでしょうか。

ボルタンスキー 12、13歳になった頃です。私は学校にも行っていない、奇妙な少年だったわけです。あるとき、兄が私が描く絵を見て、なかなかいいと褒めてくれたのです。私は生まれて初めて褒められたので、それではアーティストになろうと思いました。

―― どんな絵を描いていたのですか。

ボルタンスキー それは子どもがよく描くような絵です。両親はインテリでしたから、私が画家になりたいと話すと、絵の具と大きな木の板を買ってくれました。板に絵を描きたかったのです。当時、私が描いていたのは虐殺に関する絵でした。その当時、私は精神的に乱されていました。今で言えば、アウトサイダー的な、病理的な絵を描いていました。当時に描いていた絵は2m×3mとか大きなサイズのもので、100枚ほど描きましたが、そのほとんどは残っていません。現在、ポンピドゥー・センターとパリ市立美術館に1点ずつ、経緯はわかりませんが、この頃の絵が収蔵されています。

異なる方法で、同じ旅のことを語っている。

会場奥の広い空間に現れる『ぼた山』(2015年)。積み上げられた黒い服は、ひとつの塊のようです。
『ぼた山』がある展示空間の天井には、100枚を超えるヴェールからなる『スピリット』(2013年)が漂います。

―― そうしたことがあったので、ご自身のことを「表現主義の画家」といわれるのですね。

ボルタンスキー そうです。私が最初に描いた作品は表現主義の絵画でしたからね。今回の展覧会に出ている短編映画『咳をする男』(1969年)は、当時描いていた絵に似た表現主義的な作品といえるかもしれません。私は思うのです。私はいつも同じ作品をつくっているのだと。アーティストの生活というものは、旅のようなものです。いろいろな旅をして、その都度、違う仕方で旅を語ります。ある時は旅の食べ物のことを語り、またある時は風景のことを語ります。そしてある時は、人を語ります。つまりそれぞれの時に、異なるやり方で、同じ旅のことを語っているのです。同じような問題について関心があったとしても、以前のように絵画を描いたり、短編映画を撮ったりはしません。いまはまた違うやり方で、今日の旅を語るのです。

私の最初の作品にも、いま関心のあることが出てきます。しかし、いまは以前と同じやり方はしません。別なやり方で同じ問題を表現するのです。今回の展覧会のためにつくった『幽霊の廊下』は、完全に表現主義的な作品で、ほとんど絵画のようです。

大量の古着が壁一面に吊り下げられた『保存室(カナダ)』(1988年)。
床に無数の電球が置かれた『黄昏』(2015年)は、国立新美術館での展示期間中、毎日3つずつ光が消えていきます。生命が日々死に近づいていくことを象徴しています。

―― 展覧会場を歩いていると、光と影に彩られた作品から、死者や失われた記憶のイメージを感じます。一方で、展覧会の題名は『ライフタイム』。生の時間という意味です。そこにはなにか象徴的な意味が隠されているのでしょうか。

ボルタンスキー これは私自身の「ライフタイム」です。こうした回顧展をやる時に難しいのは、自分の人生が展開していくのを見ることです。「ライフタイム」には始まりと終わりがあり、生と死があります。私のことであると同時に各自の「ライフタイム」でもあります。「ライフタイム」には出発と到着があり、展覧会にはそうした作品も展示してあります。ある程度生きて人生を振り返ると、いいこともあったし、悪いこともあったと思い、人生がじきに終わるだろうと思い、死が近づいていることを感じるのです。

今回の展覧会は、大阪の国立国際美術館から今回の国立新美術館を経て、長崎県美術館へと巡回します。「展覧会そのものをひとつに作品として捉えている」とボルタンスキーはいいます。
会場の入り口に立つと最初に目に入る『出発』(2015年)。

―― 東京のような都会に暮らす人たちがこの展覧会を見ると、あなたは世界的なアーティストなのだとすぐに理解するでしょう。しかし、世代や出身によっては、あなたの作品は日本の古い家にある先祖をまつる仏壇に似ていると思うかもしれません。こうした解釈も、またよしとしてよいのでしょうか?

ボルタンスキー そう言っていただけるのは、私にとって無上の喜びです。私も先祖を崇拝していますし、私たちの顔は、先祖の顔のパズルの組み合わせでできていると思っています。私たちの精神も身体も、祖先から譲り受けたパズルでできているのです。私は偶然20世紀のパリに生まれましたが、前世紀のアマゾンに生まれたらシャーマンに、ロシアならばユダヤ教のラビになっていたかもしれません。そういう私がつくろうとしているものは、各人がそれぞれの仕方で理解できるものです。たとえ疑問があったとしても、その答えはひとつとは限らないものです。


※写真はすべて『クリスチャン・ボルタンスキー ―Lifetime』展 2019年 国立新美術館展示風景より

『クリスチャン・ボルタンスキー―Lifetime』

開催期間:2019年6月12日(水)~9月2日(月)
開催場所:国立新美術館 企画展示室2E
東京都港区六本木7-22-2
TEL:03-5777-8600(ハローダイヤル)
開館時間:10時~18時(金曜、土曜は21時まで) ※入場は閉館30分前まで
休館日:火
入場料:一般¥1,600(税込)
https://boltanski2019.exhibit.jp

※2019年10月18日(金)より長崎県美術館に巡回