薬草園に誕生した、クラフト蒸留所「mitosaya」【前編】。本の世界から転身した江口宏志さんがつくる、ボタニカル・スピリッツとは。

  • 写真:江森康之
  • 文:西田嘉孝
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千葉県大多喜町の閉園した薬草園に、その地で採れたフルーツやボタニカルを用いた蒸留酒を作る蒸留所「mitosaya」が誕生しました。ブックショップオーナーから蒸留家に転身した、江口さんの新たな挑戦に迫ります。

ユトレヒトなどの経営はスタッフに譲り、蒸留家となった江口宏志さん。

2002年にブックショップ「ユトレヒト」をオープンし、その後は「TOKYO ART BOOK FAIR」を企画・主催するなど、常に本を中心に活動を続けてきた江口宏志さん。2015年からは蒸留家へと転身し、ボタニカルを使った酒づくりをスタートさせています。日本にブックカルチャーを根付かせてきた江口さんが新たに目指すのは、日本でしかつくれない"オー・ド・ヴィー(蒸留酒)”を生み出すこと。本格的に稼働したばかりの、真新しい蒸留所を訪ねました。

つくることと暮らすことが、渾然一体となったスタイル

新緑の季節、野鳥のさえずりが響く園内を案内してくれました。「ちょうどすべての植物が十分に育つ時期ですね」と江口さん。

房総半島の中央部に位置する千葉県夷隅(いすみ)市大多喜(おおたき)町。面積の7割以上を森林が占めるという緑豊かなこの町に1987年に開園した薬草園が、江口さんの新たな挑戦の舞台です。薬草園はもともと県立の施設でしたが、2015年に閉園に。大多喜町がその跡地を活用する事業者を募集していた時期と、江口さんが蒸留所の建設地を探していた時期がちょうど重なり、17年春、まるで運命に導かれるように江口さんは家族とともにこの薬草園に“移住”しました。今年6月にはファーストリリースも完成したという蒸留酒は、ここで一体どうやってつくられているのでしょうか……? まずは江口さんに蒸留所を案内してもらいました。

イラストレーターである江口さんの妻、山本裕布子さんが描いた園内のマップ。

「お酒をつくること、植物を育てること、そして暮らすこと。できればそのすべてを同じ場所でやりたかったんです。でもなかなか日本にはそういう環境がなくて。最初は廃校になった学校はどうだろうとか、それだと規模が大きすぎるから幼稚園ならいいかなとか……。そうこう探しているうちに、この場所に出合いました。薬草園を見た瞬間に、『ここならやりたいことができるな』と。とはいえ住むことに関しては、家族はピンと来ていなかったかもしれません(笑)」。移住と同時にクラウドファンデイングを開始し、蒸留所に来園者を迎えるための施設の整備などの資金を募った江口さん。オー・ド・ヴィーのファーストバッチ(初回蒸留)や、1年にわたって届く薬草園内のボタニカルを使ったプロダクトなど、数々の魅力的なリターンが用意されたプロジェクトで多くの支援者を集めました。

まるで森の中に迷い込むような、「mitosaya薬草園蒸留所」への入り口。

約16000㎡の敷地に500種以上の植物が植えられていたという薬草園。いまも数100種類の植物が育つ園内にもともとあった資料展示館や温室などの建物を、それぞれ蒸留設備を備えた製造棟やテイスティングルーム、家族が暮らす家へと改修。既存の建物を再利用したこの蒸留所を、江口さんは果物などの実りを象徴する「実」とそれを守る「莢(さや)」、そしてふたりの娘さんの名前にちなんで「mitosaya薬草園蒸留所」と名付けました。

薬草園には、酒づくりに使える多種多様な植物が生い茂ります。近隣の地域では果物も栽培されます。「ここはまさに理想の場所」と江口さん。

mitosayaで体現されるのは、プロダクトを生み出すことと暮らすことが、自然の中で一体となった酒づくり。そんな江口さんの志向は、蒸留家への転身を決めた“ある出会い”に重なります。もともとユトレヒトの代表として、国内外のアーティストや多くの本のつくり手たちと交流をもってきた江口さん。そんな本のつくり手のひとりが、ドイツでRevolverという出版社を主宰していたクリストフ・ケラー氏。江口さんはとある雑誌の記事で、ケラー氏が出版社を辞めてドイツの田舎町で蒸留酒づくりを行っていることを知り、彼の生き方や蒸留酒への興味を深めます。

蜂の遊び場となるお手製のビーホテルは、アート作品のような佇まい。ドイツなどヨーロッパではよく見られるものなのだとか。

2013年には、2年に1度の蒸留所開放のタイミングに合わせ、ドイツ南部のアイゲルティンゲンにあるケラー氏のスティーレミューレ蒸留所を訪問。15年からは弟子入りするような形で家族とともにドイツに移り住み、約1年間にわたって蒸留所でケラー氏に師事しました。


地元の大学の薬学部の学生たちが研修に利用していた円柱形の建物。現在は、江口ファミリーの暮らす家に。

蒸留家としてのケラー氏は、世界的なクラフトジンブームの火付け役となった「モンキー47」の生みの親としても知られています。04年に彼が創設したスティーレミューレ蒸留所では、600種類以上の果実やさまざまなハーブ、スパイス、野菜、キノコといったボタニカルを原料に、バリエーション豊かな蒸留酒がつくられていました。国際的な酒類コンペティションなどでも高く評価され、世界の酒好きを魅了する……。そんなスティーレミューレの蒸留酒は、豊かな自然に囲まれた小さな蒸留所で、つくり手の暮らしに寄り添いながらつくられていたのです。

自然から得たインスピレーションをカタチに。

広大な敷地内の植物は、地元の人たちの手も借りて管理されています。

ドイツで江口さんが経験したのは、自ら果物や植物、ハーブを育てることはもちろん、ときには野山に分け入ったり、近隣の人たちに譲ってもらったりと、できるだけ自然に近い状態で原材料となる素材を収穫し、新鮮なまま加工して発酵・蒸留を行うということ。まさに、自然の恵みを最大限に活かした酒づくりです。そうした経験はそのまま、現在の江口さんの蒸留所のスタイルにつながっています。

「香りがいいですよ」「食べてもおいしいですよ」と、園内を案内しながらその場でさまざまな植物を摘んで渡してくれる江口さん。一つひとつ匂いを確かめながら、園内を歩いて行きました、

「もともとあった植物はほぼそのままに。有毒なものだけは植え替えています。植え替えた区画では、ニガヨモギやブロンズフェンネルなど、アブサンの原料となる植物を育てています」と江口さん。「アンジェリカは香りもいいし食べてもおいしい。クラフトジンにもよく使われていますが、これもなにかに使いたいですね。ヘンルーダはイタリアではグラッパに漬け込まれたりしますが、香りが特徴的で面白い。これを使ったお酒もつくろうと思っていて、山梨の金井醸造所から譲ってもらったブドウの絞りかすでグラッパを蒸留しました」と、次々と周りの植物を手に取り、説明してくれました。

ヤロウ(セイヨウノコギリソウ)の花。独特の清涼感のある香りと、口に含むと軽い苦味があります。
「花や葉にも、酒に使うと面白そうなものがあります。薬草園にいると、そうした気づきが現場で生まれるので楽しいんです」。

一つひとつの植物の育ち具合を確かめながら、まるで挨拶を交わすように、葉や花の香りを嗅いだり、口に入れて味を確かめたり。「毎日のように色々な発見があって、どれを使ってなにをつくろうかと。そんなことを考えるのが面白いですね。どこになにが生えているのかようやく把握してきたので、植物のマップをつくりたいのですが、作業がまったく追いつかなくて」。そう話をしながら園内を歩く江口さんは、多忙ながらもとても楽しそうです。


ハーブティーやサプリメントに使われるエルダーフラワー。その実であるエルダーベリーは、ソースやジャム、果実酒の原料にもなります。

そもそもmitosayaでつくられるオー・ド・ヴィーとは、フランス語で「生命の水」を意味し、蒸留酒の総称として使われる言葉。一般的に果物を蒸留・発酵させたお酒はブランデーと呼ばれますが、mitosayaでは果物だけでなくハーブや花などさまざまなボタニカルを使用します。また、果実を発酵させた醪(もろみ)を蒸留することもあれば、果実やボタニカルをライススピリッツに漬け込み、成分を抽出した上で蒸留することも。つまり、原料や製法など単にブランデーとは呼べない多様なつくり方で生み出される蒸留酒をつくっているのです。そういった理由で、江口さんはオー・ド・ヴィーと呼んでいます。

アップルミント。名前の通りリンゴのような甘い香りが特徴。葉の部分だけを収穫して使います。

園内では養蜂も行っており、ハチミツも収穫しています。蒸留所の創設時に行ったクラウドファンディングのリターンとして設定された、「植樹コース」の支援者が植えた洋梨やプラム、アプリコットなど、果物の木々もすくすくと育っていました。

「支援してくれた方が、自分で植えた木に成った果実を収穫し、それでオー・ド・ヴィーをつくってお返しする。まだ何年か先のことですが、早く実現したいですね」と江口さんは話します。

ファーストリリースに向け、小さな挑戦を重ねる日々。

薬草園の中には温室も。入り口の壁には「Glass house(温室)」の文字が。

「初めてここに来たときは半分くらい建物のガラスも割れていて、中の植物も荒れ放題だったんですよ」。江口さんがそう話す温室は、天井が高く広々とした空間。もともと植えられていたグァバやバナナ、江口さんが植えた山葡萄なども実験的に栽培されています。

江口さんが初めて訪れた時は元気がなかった温室内の植物も、現在はすくすくと成長中。

「小さな蒸留所なので、思いついたらすぐにチャレンジができるのがいいところ。その分、なかなかつくる量は安定しませんが、いまは色々なことを試しています」

今年の5月には念願のファーストリリースも完成。千葉県市原市のミカン農園で収穫した温州ミカンをはじめ、江口さんが現地に通って仕入れた果物や自ら育てたハーブを使った、全6種類のフルーツブランデーやアブサン、グラッパといった蒸留酒が揃いました。

発酵から蒸留、ブレンドなど、お酒づくりのメインとなる作業はすべて江口さんがひとりで担当しています。

まだ一般にはあまり出回っていないものの、その香りや味わいに出合えた幸運な人たちを、じわじわと魅了し始めているmitosayaのオー・ド・ヴィー。その製法や哲学は、奇しくもmitosayaのスタートと入れ替わるように、18年末に操業を停止したスティーレミューレ蒸留所から受け継がれています。

蒸留などを行う製造棟の入り口に飾られたリース。園内を散策するとあちこちで、薬草園のボタニカルでつくられた愛らしいオブジェに出合えます。

mitosaya
千葉県夷隅郡大多喜町大多喜486
www.mitosaya.com