1999年に原美術館で開催され、その赤裸々な表現が衝撃をもって受け入れられたソフィ・カルの伝説的な個展「ソフィ・カル『限局性激痛』」が、「『ソフィ カル―限局性激痛』原美術館コレクションより」として、2019年3月28日まで同館にて再び開催されています。
コンセプチュアル・アーティスト、フォトグラファー、映画監督、あるいは探偵。そんな風に称されるソフィ・カルは、1970年代後半よりテキストと写真で新たな境地を開きました。ある時はパリの街で知らない人を尾行し、ある時は知らない人を自宅のベッドに寝かせてアンケートを通じてコミュニケーションをとり、また近年の作品では、海を見たことのない人が初めて海を見る様子を映像に収めるなど、一筋縄ではいかない作風で知られるフランスの現代アーティストです。個展「『ソフィ カル―限局性激痛』原美術館コレクションより」が開催されている原美術館で、来日したソフィ・カルと、99年の個展を担当した学芸員で、現在館長を務める内田洋子さんに話を聞きました。
住人の記憶が残る空間で、パーソナルな作品を展示したい。
1938年、実業家の原邦造の私邸として、アール・デコやバウハウスのスタイルを融合させた建物が北品川の閑静な住宅街に建てられました。設計は、東京国立博物館や東京・銀座の和光(旧服部時計店)などを手がけた渡辺仁によるもの。建築的な魅力も備えるこの建物が79年に「原美術館」として、当時の日本では珍しい現代アート専門の美術館に生まれ変わりました。昨年11月、建物の老朽化によって2020年12月に閉館することが発表されると、さまざまな媒体で報じられ、SNS上には閉館を惜しむコメントが飛び交いました。1985年より学芸員として勤務を開始し、2018年7月1日に館長に就任した内田洋子さんはこう話します。
「この美術館に就職した際に、創設者で昨年まで館長を務めた原俊夫から、『ご縁のある間は一緒に楽しく働きましょう』という言葉をいただきました。もちろん多少の入れ替わりはこれまでにありましたが、ポジティブな気持ちで楽しみながら美術館で働きたいと考えるスタッフが集まって、一緒に長く仕事を続けられるチームが形成されました」
1999年にカルの『限局性激痛』展が開催されると、出展作品はすべて原美術館のコレクションに加わりました。そして、美術館の空間と最高の組み合わせを見せるその作品が、閉館を前にフルスケールで再現されることになったのです。当時、学芸員として展示を担当したのが、内田館長です。
「ここは美術館として建てられたホワイトキューブの建物ではなく、かつて個人の邸宅として利用されていた建物なので、そこには人の記憶が残されています。そうした建物で個展を行うなら、以前日本に来た経験と関係しているパーソナルな作品を展示したいと、ソフィはこの作品を提案してくれました」
『限局性激痛』は、原美術館の全館を使いインスタレーションとして展開する作品です。制作のきっかけとなったのは、カルが1984年に奨学金を得て、3カ月にわたって日本に滞在したこと。そのときに経験した失恋という悲しい出来事をモチーフに、作品がつくられたのです。
出会った人と、「最も苦痛だった瞬間」を交換する。
少女の頃から恋心を寄せていた父親の友人である男性と想いがようやく通じて恋人となりますが、ほどなくしてカルは日本に留学することになります。3カ月間も離れ離れになることを望まない彼の思いに反して日本に向かうことは、アーティストとして活動を開始してまだ日の浅いカルにとっても挑戦であり、彼との関係を考えると一種の賭けでもありました。そして実際、フランスを発った1984年10月25日から、不幸へと向かう92日間のカウントダウンが始まりました。
「来日する前は彼と離れたくない思いもあり、日本に来ることが憂鬱でした」と、当時のことを話すカル。
「正直なところ、来日するまでは日本に対してポジティブなイメージをもっていませんでした。そして、滞在が終わってフランスと日本の中間地点のインドで彼と会う約束をしていたのですが、彼はやってこなかった。失恋したのです。おかげでこの滞日経験も、忌まわしいものとして記憶に残ってしまいました」
冗談めいた口調で笑いながらそう話す彼女ですが、その時の失恋は人生最大の悲劇であり、どん底に突き落とされたような思いがしたと言います。インドのニューデリーのホテルで彼と電話で話し、好きな人ができたことを告げられると、部屋の電話とカーペットを数時間見つめ続けることしかできませんでした。
そしてフランスに帰国後、彼女はこの人生最大の苦しみから解放されるために、いろいろな人にこの経験を語り、それと引き換えに相手に対して「あなたにとって最も苦痛だった瞬間のことを話してほしい」とインタビューをしたのです。
「ほとんどの相手は私の友人や知り合いではなく、カフェで一人で泣いていた時にハンカチを手に声をかけてくれたギャルソンなど、初めて会う人たちでした。『こういうことが起こったんです』と失恋の話をしたわけですが、最初のうち私の話はとても長く、複雑で入り組んでいました。しかしそれを60回も繰り返すと、感情的に話していたストーリーも話し慣れ、私の口から機械的に語られるようになったのです。やがて失恋の悲劇からも距離が生まれ、日に日に私の状態は良くなり、自分が苦痛を感じ続けるのもおかしいと思えるようになってきました」
しかし、この経験をもとにした作品の制作には、すぐには取り掛かることはできませんでした。
グラデーションの刺繍で綴られた、苦しみの体験。
「この体験をもとに作品を制作したら、再び自分の失恋と向き合い、自分が不幸な状態に戻ってしまうかもしれない。それが怖かったんです。でも来日中に撮影した写真と、自分にとってセラピー効果のあったインタビューを起こしたテキストが手元にあったので、これでそのうち作品を制作できることはわかっていました。あれから15年が経ち、原美術館のプライベートな記憶が残る空間で展示できるようになった時、制作のタイミングが来たと直感しました」
作品の第1部は、日本に向けてパリを出発する日の「92 DAYS TO UNHAPPINESS(不幸まで92日)」とスタンプされた1枚のスナップからスタートします。失恋するまでのカウントダウンが、滞日中に撮りためたスナップや飛行機の搭乗券などで表現されます。そして、日本での滞在が終わり、ニューデリーへ向かう飛行機へと搭乗する直前に手渡された彼からのメッセージのメモ書きが「1 DAY TO UNHAPPINESS(不幸まで1日)」。ニューデリーでチェックインして、彼から電話で別れを告げられたインペリアル・ホテルの261号室を再現した空間作品を挟み、第2部として徐々に失恋の悲しみから癒されていくインタビューを綴った刺繍の作品が展開します。
「この時の体験を作品化するために、どのような素材や技法を使うかを見極めるまでには時間がかかりました。自分の苦しかった体験を人に語り、それを続けることで癒されていったというプロセスを表現するために、刺繍という方法を思いついたのです。最初はグレーの布に白い糸でストーリーを縫っていき、途中からグレーの背景にグレーの糸で刺繍をして溶け込むように見せることで、多くの人に話すうちにストーリーが簡潔になり、苦しみが消えていった様子が表現できると考えました」
アイデアが見つかった時が、アーティストとして最大の興奮を得る瞬間。
カルは『限局性激痛』で失恋を作品の題材にしました。それ以外にも、他界する母親を記録した映像と最後の言葉をモチーフに作品を手がけたり、生来の盲目の人々が思い描く「美しい風景」や事故や病気で視力を失った人が「最後に見たイメージ」を題材にしたりと、「喪失」や「不在」といったテーマがこれまでの作品には一貫してあります。
「病院や墓地などの雰囲気にインスパイアされることもありますし、不在や死などといった事象にアーティストとして自然と惹かれます」。アートを通して表現したいのは、感覚的なものであると強調します。
「私は自分の失恋や母の死のように、自分の体験から作品を手がけることはありますが、決して自分のことを語りたいわけではありません。そうした体験から生まれた自分の感覚、反応というものをテキストに表現したい、というのが創作の初期的な動機です。誰でも失恋した経験や、大切な人を失った経験はあるでしょう。もし誰かが病床に眠る私の母を写した作品を見て涙を流したとしたら、それは私の母の死に対してではなく、自身の母親の死がそこに重なったことで生まれた涙だと思います。作品を見た人が自分の感情を投影できるような作品、それを私は制作したいと思っています」
現在、東京では原美術館の他に、2カ所のギャラリーでカルの個展が開催されています。ギャラリー小柳では『Parce que(なぜなら)』と題して、被写体を撮影した理由を刺繍した詩的なテキストと実際に撮影した写真を組み合わせた作品を、ペロタン東京では、母親、父親、猫の死を題材とする作品を展示しています。詩的な美しさ、ユーモア、アイロニーなど、様々な要素が複合的に絡み合うカルの世界を、原美術館を含めてこの3つの展示で味わうことができるのです。
「私がアーティストとして最も興奮するのは、作品のアイデアが見つかる瞬間です。 “Souris(フランス語でネズミ)”という名の私の猫が死んで、知り合いのミュージシャンに歌をつくってもらおうと思った時も、自分の失恋体験を人に話して苦しかった体験をインタビューした時も、このアイデアは作品として成立するということが瞬間的に確信できました。写真になるのか、映像になるのか、刺繍になるのか、その時点で表現手段がわかっている必要はありません。作品として成立することを直感できるネタのアイデアが生まれた瞬間に、私は最大の興奮を手に入れることができるのです」
「ソフィ カル―限局性激痛」原美術館コレクションより
開催期間:2019年1月5日(土)〜3月28日(木)
開催場所:原美術館
東京都品川区北品川4-7-25
TEL:03-3445-0651
開館時間:11時〜17時(水曜は20時まで) ※入場は閉館の30分前まで
休館日:月曜日
入館料:一般 ¥1,100(税込)
https://www.haramuseum.or.jp
※ソフィ・カル『Parce que(なぜなら)』がギャラリー小柳(www.gallerykoyanagi.com)にて3月16日(土)まで、ソフィ・カル『Ma mère, mon chat, mon père, dans cet ordre(私の母、私の猫、私の父、この順に。)』がペロタン 東京(www.perrotin.com)で3月11日(月)まで同時開催中。