ヨーロッパの辺境から新しい建築の姿を模索した、北欧の巨匠アルヴァ・アアルトを追って。

  • 写真・文:山田泰巨
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今年、生誕120年目を迎えるフィンランドの建築家、アルヴァ・アアルト。20世紀を代表する建築家であるのはもちろん、家具や照明器具、ファブリックなどさまざまなアイテムで今日まで北欧のモダンデザインを牽引する存在です。なぜアアルトは誰より早く地域性に目を向け、温かみある建築や家具を実現できたのか。その作品をひも解きながら、魅力の源泉をたどりましょう。

わずか35歳のアルヴァ・アアルトが1933年に完成させた「パイミオのサナトリウム」。松林のなかに突如現れるモダンな建築は、完成から85年を経たいまも色褪せません。煙突に付帯する白い筒は煙突の熱を使って水を温めていた装置。モダンなデザインと細部へのこだわり、そして実験性に富んだ初期の名作です。

まもなく19世紀が終わろうとする1898年、アルヴァ・アアルトはフィンランドの小さな街、クオルタネに生まれました。測量技師の父が、この地で森林を調査し管理をしていたのです。やがてその父が町議員に選出されたことから、家族はフィンランド中部にあるユヴァスキュラへ居を移します。アアルトは、後年にいくつもの名作を遺すことになるこの街で大学入学までを過ごしました。幼年期から絵を描くことが好きだった彼は地元の画家に絵を習い、14歳の頃には新聞や書籍の表紙用に絵が購入されるほどの腕前だったといいます。

やがてアアルトはヘルシンキ工科大学に入学しますが、学生時代にフィンランドは激動の時代を迎えることになります。入学の翌年にフィンランドがロシアから独立。続いて始まった内戦ではアアルト自身も独立を守る運動に参加しました。やがて情勢が落ち着き、大学卒業後の23年にはユバスキュラに自身の設計事務所を設立。翌年には建築家のアイノ・マルシオと結婚しました。キャリアの最初期であるユバスキュラ時代には、後に北欧古典主義と呼ばれる装飾的な様式を用いていたアアルト。しかしアイノ・アアルトとの新婚旅行ででかけたヨーロッパでの体験を経て、その目はモダニズム建築へと向けられるようになります。

インターナショナルスタイルに挑みながら、細部にも視点を向けた初期の傑作。

グリッド状の窓や連続する水平窓など、モダニズムへと目を向けた初期の傑作です。しかし奥の棟に見える色鮮やかなシェードなど、既にアアルトはここで過ごす人々に温かい眼差しを向けているのがわかります。

1927年、アアルトはコンペに勝利し仕事の依頼も続いたため、かつて首都の置かれていたトゥルクに事務所を移します。ヘルシンキよりも西に位置するトゥルクはスウェーデンにも近く、当時のフィンランドにおいてもっともヨーロッパ本土に近い都市でした。

この年、ドイツではミース・ファン・デル・ローエが中心となり、ル・コルビュジエやヴァルター・グロピウスらが参加したモダニズム建築を実践する住宅展覧会「ヴァイセンホーフ・ジードルング」が開かれています。19世紀末のウィーン分離派に始まり、デ・スティル、バウハウスと近代建築を求めて、ヨーロッパではさまざまな試行錯誤が行われていた時期でもあります。これらから生まれたモダニズム建築のあり方に若きアアルトは大きく共感していきます。

トゥルク時代にはル・コルビュジエが提唱した近代建築の五原則を早々に取り入れた「トゥルン・サノマット新聞社」を完成させ、ヴァルター・グロピウスやラースロー・モホリ=ナジら、バウハウスのメンバーと交流を深めていきます。こうした体験が建築として結実したのが初期の傑作「パイミオのサナトリウム」です。

黄色の床は陽の光を受けて、室内を明るくします。日照時間が限られた冬に少しでも多くの光を取り込もうとしたのでしょうか。階段の段の高さも抑えて老若男女が登りやすいものにしたとか。
階段の踊り場には患者用の42 アームチェアとベッド。大きな窓のおかげで室内からも森の風景を楽しむことができます。
ターコイズの優しい色でまとめられた病室。病室のベッドを2台に抑え、患者の快適性を重視したといいます。大きな窓は、すべての部屋で平等に光が入ることを考えたものといいます。
フィンランドで初めて採用されたというシースルーエレベーター。大きな窓からは森を見通すことができます。

1929年、トゥルクにほど近い町、パイミオに新たなサナトリウム(結核療養所)を建てるためのコンペが行われました。アアルトはこのコンペに勝利し、33年にサナトリウムを完成させています。

コンペ出展時に30歳になったばかりの若いアアルトに医療施設を設計した経験はありません。しかし彼はここで、これまでの医者本位で設計されていた療養所ではなく患者の視点に立った設計に心を砕きます。それがモダニズムを追求しながら、人間本位の空間を目指す大きなきっかけとなったのかもしれません。

美しい松林のなかに突如あらわれる建物は、来館者を迎えるメインゲートを中心にハの字型に開かれて配置されています。患者の療養には室内にいながら新鮮な空気と日光をしっかり取り込む必要があり、そのためにモダニズム建築が提唱していた開放的な窓は最適な存在だったといえるでしょう。それぞれの病室はもちろん、アアルトは食堂にも南面に大きな窓を設けています。寒さをしのぐための暖房や換気システムにもこだわり、採光、照明器具、色彩や騒音対策、ドアの取っ手といった細部までオリジナルでつくっていったのです。

大きな窓から陽が差し込む食堂。天井を高く取り、日光をしっかりと取り込む快適な空間を目指しました。
食堂の照明器具。ゴールドの部分にはもともと熱線が仕込まれ、暖房の機能も果たしていたといいますが、70年代にラジェーターに切り替わり使われなくなったそう。
食堂に並ぶ椅子はもともと黒で塗装されたものとナチュラルだったものが50年代にオレンジにペイントされたといいます。こちらはいまも復刻されておらず、ここでのみ見られます。
サナトリウムのために製造された椅子を総称して「パイミオ チェア」と呼びます。これはそのオリジナル。中央にあるスチール脚のスツールはアイノ・アアルトのデザインで、現在はアルテックがサイドテーブルとして製造。バウハウスのデザインに目を向けていたことがうかがい知れる家具の一つです。

ここではアアルトの妻、アイノ・アアルトの仕事にも着目していきましょう。アアルトの名があまりに大きくなったため見過ごされがちですが、近年はアイノ・アアルトがアアルト作品のなかで果たした大きな役割が再評価されています。

まず驚くべきは、アイノ・アアルトがこの時代に早くも館内の色彩計画を入念に練っていることでしょう。アイノ・アアルトは知人の画家とともにインテリアのカラー・チャートを作成。それぞれの空間において主たる使用者を設定し、患者、訪問客、職員などの気持ちに沿った色彩構成をしています。館内に明るい印象を与えるターコイズやイエロー、日差しを受けて館内に温かい色味を指すシェードにはグリーンとオレンジ、それらを引き立てるブラックやホワイト。絶妙に配された色は往時のままなのです。細部までこだわったインテリアもアイノ・アアルトの力によるものが大きいようです。当時は既製品も限られており、夫妻は家具や建具なども一つひとつ新たにデザインをしていきました。こうして生まれた家具のひとつが「41 アームチェア パイミオ」。結核の患者が楽に呼吸できるよう背もたれに角度を設けた椅子は、現在も生産が続く名作家具の一つです。

この安楽椅子はもともとクロムメッキ仕上げのスチール製を考えていたものを、長期の療養に沿うよう身体に優しい温かみある木材に変更したといいます。ここで二人は友人のマルセル・ブロイヤーがデザインしたワシリーチェアを意識しながら、金属の代わりに積層した木材を曲げ加工することでフレームと座面をつくることに挑みます。結果、温かくしなやかな弾力をもち、ゆったりと座れる椅子が生まれました。国内に豊富な資源をもつバーチ材を使い、コストを抑えることもでき、彼らは家具デザイナーとしても一躍有名になります。

館内にある医者用の部屋。右のソファもアルヴァ・アアルトによるもの。窓にかかるカーテンは後年の1954年にアルヴァ・アアルト がデザインしたファブリック「シエナ」。
光沢のあるブラックに塗装された院長用のデスクもアアルト夫妻によるデザイン。後のアルテックの家具に比べ、まだ古典的な要素をもったデザインが新鮮に映ります。
最上階のテラス。元は結核患者の日光浴用に作られた空間。戦争帰りの兵士たちも多く、フィンランドらしい風景は彼らの心を慰めたともいわれています。Paimio Sanatorium ●Alvar Aallontie 275 Paimio  右記サイトでツアーを開催  www.magnimundi.fi/paimio-sanatorium-guided-tours/

また、居室各部のディテールの数々にも驚かされます。患者の袖がひっかからないように特殊な形状で仕上げられたドアノブ、光源が気にならないようにシェードがつけられた照明器具、掃除がしやすように床から離れたワードローブは目に優しいカーブを描き、水が飛び散らないよう深く穿たれた洗面器は後に自邸でも使っているものです。屋外に置かれたリクライニングチェアも夫妻によるデザインです。こうして細やかに気を配られた建物は古びることなく、築85年を経ても現役で使い続けられています。もちろん病室や内装は手を加えられていますが、一部にしっかりとオリジナルを残し、往時を伝えています。

見学ツアーのハイライトのひとつが、患者が日光浴を楽しんだという最上階のテラスです。ここから望むのは、まさにフィンランドの原風景ともいうべき松と白樺の林。完成とともにアアルトはなにを思ったのでしょうか。この建物が世界的な評価を集めたアアルトはここでモダニズムに別れを告げ、フィンランドの美しい自然とともにある建築を目指していくことになります。

ヘルシンキの自然と向き合う時期に生まれた、素朴でいて心地よい自邸。

閑静な住宅地に佇む自邸。竣工から80年超とは思えないタイムレスな魅力はアアルト作品全般に通底するものです。

パイミオのサナトリウムで世界的な評価を得たアアルトは、自邸兼事務所をヘルシンキに移します。場所はヘルシンキの中心部からそれほど遠くない緑豊かな閑静な住宅地、ムンキニエミ。現在は郊外の閑静な住宅街ですが、アルヴァ&アイノ・アアルトが手に入れた当時はまだ手つかずの自然が残っており、屋上のテラスからは自邸にほど近い美しい入江が見えたといいます。

閑静な住宅街にひっそりと建つ、白く塗られたレンガと濃い茶の木板張りの家。国を代表する建築家が暮らしたとは思えないほど穏やかな佇まいに驚きます。急峻な丘の斜面に建つこの家には、家族のための住まいと仕事を行う事務所、アトリエが併設されていました。

室内は大きく3つの空間に分かれています。まずは2層分の仕事用スペース、そして屋上のテラスで仕事場と切り離された2階のプライベートな空間、そして1階のリビングとキッチン。仕事場とリビングやキッチンは戸襖で簡単に仕切られており、開放すると一つの大きな空間に変化します。2階に上ると第二のリビングルームともいうべき家族の空間が広がります。ここには暖炉が置かれ、それを囲むようにそれぞれの部屋が並びます。ヒーティングシステムをしっかりとっており、この暖炉はコージーな雰囲気を出すためにあえて入れたものと財団のガイドは説明してくれました。どこか垢抜けない印象を残すこの暖炉こそ、自邸に込めた思いが読み解けるのかもしれません。モダニズムの洗練から、温かみのある空間へ。アアルトはそうした変化の時期をまず自邸で試していたのかもしれません。

丘陵地の斜面に立つ。暖かな季節には蔦が建物を覆います。
仕事場の隅にはアアルトのデスク。グラウンドになった場所も元は自然豊かな風景が広がっていました。当時、大きな窓はまだフィンランドの家庭では一般的ではなく、いち早く取り入れていたといいます。
アイノ・アアルトが子どもたちにピアノを弾き、時にアアルトはそれに合わせて歌ったとか。ピアノの上に置かれたランプはポール・ヘニングセンによるオリジナル。アイノ・アアルトの写真は49年に死去してからずっとここに飾られているといいます。空間を仕切る引き戸など、アアルトは日本の障子や襖にヒントを見出したといいます。
ダイニングテーブルにはアルテックのものを使いますが、椅子は夫妻が新婚旅行先のイタリアで購入したもの。
子ども室のひとつ。シンプルな空間の佇まいはいまの時代となに一つ変わりません。
窓辺の照明はフランスの画商、ルイ・カレのために設計した住宅用に作った実験的なゴールデンベル型の特別仕様モデル。テーブルとともに壁面の絵画を照らすよう側面にメガホン状のシェードが加わります。THE AALTO HOUSE ●Riihitie 20, 00330 Helsinki ウェブサイトにガイドツアー開催日時を記載。一般18€ www.alvaraalto.fi/en/location/the-aalto-house/

この自邸を手がけた30年代前半から作風に「波」が現れます。アアルトの名を後世に語り継ぐ要素のひとつがオーガニックな曲線。奇しくもフィンランド語で波を意味する単語もアアルトといいます。この時期アアルトは波打つフリーハンドの曲線を無数に描いています。フィンランドに広がる無数の湖の湖岸をなぞったものなのか、自宅近くの入江を散歩しながら身体で感じていたラインなのか。アアルトは誰より早く機能主義に限界を感じ、この自由な線に次なる可能性を見出していたのかもしれません。

アアルトは同時期にコンペで勝利してから幾度もの変更を経てようやく完成した「ヴィープリの図書館」で、天井に大胆な波形のデザインを描いています。また1937年のパリ万国博のためにデザインしたガラスの器「アアルト ベース」(出展時の名称は「エスキモー女性のレザーパンツ」というものだったそう)も同じころに生まれました。アイノ・アアルトがデザインし、いまなおイッタラのベストセラーとなっている「ボルゲブリック」シリーズも水紋にインスピレーションを得たものといわれています。アアルトは自らの手で描くフリーハンドの曲線で、より自由なデザインを求めていったのです。

坂道に面して真っ白な外観のアトリエ。傾斜を生かし2階に面して中庭を配置しています。
アルテックの家具や模型、プライウッドの試作品などが往時のままに残る「アアルト スタジオ」。窓の向こうには中庭が広がります。
片流れで傾斜する屋根をもつ製図室。トップライトから日の光が心地よく降り注ぎます。エントランスから2階への階段までは光を抑えており、光の量で空間にドラマ性を持たせています。
12時になるとベルがなり、スタッフみなで食事をとった食堂室。見学時にはアアルトの指定席を教えてくれます。
両面に引き戸がついたキッチンはアイノ・アアルトのアイデアを踏襲したものだとか。使い勝手のよいキッチンは彼女の死後も受け継がれました。STUDIO AALTO ●Tiilimäki 20, 00330 Helsinki ウェブサイトにガイドツアー開催日時を記載。一般18€ www.alvaraalto.fi/en/location/studio-aalto/

1955年、アアルトは自邸から歩いて10分ほどの住宅地に新しい事務所をつくりました。49年にアイノ・アアルトを亡くし、52年にはスタッフのエリッサ・マキニエミと再婚。アイノ・アアルトの死後に決まったヘルシンキ工科大学の計画以降、アアルトの後期を代表する大規模なプロジェクトが次々と始まり、スタッフが増えたこともあって自邸では手狭になってしまったのでしょう。

白く塗り込められた事務所もまた気づかずに通りすぎてしまうような控えめな佇まい。現在はアアルト財団のオフィスとして使われています。1階には食堂と現在は財団のオフィスとなっている居室、2階には製図室とアトリエが広がります。敷地の傾斜を活かしてつくられた中庭に面したアトリエには、プライウッドの曲げ木のサンプルやアルテックの家具がずらりと並びます。

アアルトはプロジェクトが佳境を迎えるとここでミーティングを開き、さまざまな検討を重ねていたといいます。コーナーに多数吊るされた照明では光をテストしていたとか。窓の外に広がる白い壁面に映像を投射し、映画鑑賞を楽しむこともあったといいます。一方、片流れの真っ白な天井が傾斜する製図室は高窓から太陽の光が差し込む心地よい空間です。

仲間とともにデザインを追求した実験の場が、住宅建築の傑作に。

北側に大きな庭とプールをもつマイレア邸。現在もプライベートで使用されており2階は見学不可。

アアルトの作品の中で最も美しいとされる住宅作品が「マイレア邸」です。

1937年、アアルトと妻アイノ・アアルトは、彼らの友人であり裕福な資産家のマイレ&ハッリ・グリクセン夫妻から夏の家の設計依頼を受けることになりました。その舞台はフィンランド西海岸の都市ポリの郊外にあるノールマルックの森に囲まれた小高い丘の上です。

現代美術を愛し、潤沢の資産をもつグリクセン夫妻はアアルトにアーティストへ依頼するかのように自由な設計を求めました。アルテックの共同設立者でもある妻、マイレ・グリクセンは現在も北欧を代表する大企業アームストローム社の創設者、アンティ・アームストロームの孫。同社は19世紀以降、製紙や製材などで拡大していき、アアルトはのちに工場や関連施設の設計で同社と関わりをもつことになります。

アアルトはアイノ・アアルト、そしてグリクセン夫妻とともに、この夏の家でさまざまな実験を行うことにしました。その実験精神からマイレア邸にはさまざまなスタイルや素材が用いられていますが、これらが美しい層をなすことで他にはない豊潤な住宅が姿を現しています。内外装も様式が混在し、部屋ごとに雰囲気も異なります。けれどそれらを束ねるのがまっすぐに伸びた松林。窓の向こうに広がる風景は、邸宅のあちこちで異なる長さに切られた木柱となって室内に続きます。

日本の竹林を思わせる丸柱は建物の内外を問わず、随所に見ることができます。
奥のサウナ小屋には母屋から屋根付きのテラスを通って移動ができます。石積みの塀や土を盛った屋根など、フィンランドの民家の要素を採用、サウナの前にもちろんプールが。
南側のファサード。日差しをより多く取り込もうとL字型になった連続窓など、アアルトらしい工夫に満ちたディテールがいくつも見つけられます。

ではその視点を建物へと向けていきましょう。丘の頂端を目指して木々に覆われた小道を登ると、アアルトの自邸にもよく似た素材づかいのマイレア邸が見えてきます。南側にエントランスがあり、その上に大きくせり出した庇を支えるのは何本もの木柱。すでにここで森の風景が反復されています。

北側にプールやサウナを備えた広い庭があり、建物は意図的にフィンランドの豪奢な邸宅に多いL字型のプランを採用したといいます。東端は北側にむかって食堂やキッチンなどの部分が張り出し、南側のエントランス上に居室が連なります。エントランスから内部に足を踏み入れると、自然とその足は左手に広がるリビングへ。暖炉のあるリビングルームにたどり着くと、ピアノとともに壁面にピカソやマティスなどが飾られた応接の空間が目に飛び込んできます。

いずれの部屋も明快な壁はなく、日本の竹をモチーフにしたといわれる木製の丸棒でゆるやかに仕切られています。この丸棒で覆われ、竹林のようになった階段の風景はあまりにも有名でしょう。多くの研究者が指摘するように、柱に巻かれた籐をはじめ、マイレア邸では家具、建築ともに日本的な素材を多く用いています。植物が好きなアイノ・アアルトがマイレ・グリクセンとともに力を入れたコンサバトリー(ガラスで囲まれた温室空間)でも、アアルトは日本に影響を受け、窓の桟や紙の照明器具、竹を思わせる籐家具などで空間を構築しています。しかしこうした遊びを支えるのは、やはり根底にあるフィンランドの風景なのでしょう。伝統的なレンガ積みの壁や木製の天井、暖炉などでそれを表現。こうした重層的な表現により、この心地よい大邸宅は濃密な空間を実現しています。

またマイレア邸には彫刻家のアレクサンダー・カルダーをはじめ、夫妻の友人が定期的に訪れていました。彼らがこの家に滞在することで自ずとアルテックの家具を体験することとなり、それはアルテックを世に広めるためにも大きな役割を果たしました。家具はそれぞれの部屋に合わせてデザインされ、たとえば現在もアルテックで販売されるキャンティレバーの「406 アームチェア」など、この家のためにデザインされたものも数多くあります。1941年には書斎の拡大にあわせて家具が追加され、照明のデザインで知られるポール・ヘニングセンがデザインしたグランドピアノなどが加わっています。

エントランスから暖炉のあるリビングルームを眺めます。エントランス正面は床が高くなっており、ダイニンングルームが。奥にキッチンがある。©Artek
ポール・ヘニングセンがデザインしたピアノ。左手に暖炉のあるリビングルーム。ピアノの奥の壁向こうは書斎。改装前は可動式パーティションで囲われており、その名残が壁の上部に見えます。©Artek
長い冬も植物を楽しめるコンサバトリー。随所に日本的な要素が見えます。©Artek Villa Mairea ●Pikkukoivukuja 20, 29600 Noormarkku 私邸として使用されているが一部期間を除いて有料で英語のガイドツアーを開催。詳細はウェブサイトで www.villamairea.fi

マイレア邸と並行して、アアルトは同時期にパリやニューヨークで開かれた国際博覧会のフィンランド館を担当しています。ここでは波打つ曲面の壁でオーロラを表現しながら、木材の表情でフィンランドという国のアイデンティティを思わせる森のような佇まいを表現。牧歌的ながら洗練された姿は高い評価を受けます。その空間を見たフランク・ロイド・ライトをして、天才とまで言わしめるものでした。

しかしマイレア邸が完成した39年にはソ連軍がフィンランドに侵攻。やがて第二次世界大戦へと発展していきます。アアルトは38年にニューヨーク近代美術館で行った個展をきっかけにたびたび渡米し、40年にはマサチューセッツ工科大学へ客員教授として招聘を受けましたが、戦争の悪化により帰国。戦後は、戦争で破壊されたロヴァニエミの復興計画をはじめ、爆撃で失われた都市や大学の計画など、大きなプロジェクトに携わるようになります。

しかし49年に妻のアイノ・アアルトが死去。悲嘆にくれるアアルトのもとに、故郷のユヴァスキュラで町役場を設計依頼が飛び込みます。ここでアアルトは夫妻が愛した地中海沿岸地方に見られる中庭を取り込み、赤レンガを使った「セイナッツァロの町役場」を完成。これを境に、レンガづかいで高い評価を集める中期の名作「夏の家」などにつながっていきます。国内外での名声の高まりとともに仕事の規模も大きくなっていったアアルト。幾度かの変化を経て晩年はイタリア産の白い大理石に魅了されるようになります。それを代表する「フィンランディアホール」は、アアルトが発表したヘルシンキの巨大な再開発プランに含まれていた作品。都市計画は実現することなく、唯一このミュージックホールだけが実現したのでした。しかし、彼はここにヘルシンキの記念碑となる建築をつくろうと思いを込めます。そして1976年、このホールの完成を待っていたかのように、アルヴァ・アアルトはこの世を去ることになります。

ヘルシンキの随所にいまも息づく、アアルト夫妻の足跡。

オープン以来、一貫してインテリアが変わらない「サヴォイ レストラン」。いまもヘルシンキを代表する高級レストランとして活躍。

ここからはヘルシンキ市内にいまも残るアルヴァ&アイノ・アアルトの空間、ゆかりのある場所をいくつか紹介していきましょう。

まずは1937年のオープン以来、ヘルシンキを代表するレストランとして知られる「サヴォイ レストラン」です。当時、フィンランドで最新の技術を取り込んだビルの最上階に入るレストランの内装設計をアアルト夫妻は請け負います。アアルトはここで、パリ万博に出展した「アアルト ベース」をインテリアに用います。ただしインテリアの多くを担当したのは、35年からアルテックのアーツアンドクラフト部門でトップになっていたアイノ・アアルトです。

アイノ・アアルトはここで光の取り入れ方にこだわりをみせています。店内は三方にオープンエアのテラス(現在はガラスで囲って屋内テラス席に)をもつものの、最奥の壁際に届く光は限られたもの。彼女は奥にあるレンガの壁を白く塗り、エントランスから続く開口部を隠すように木製のルーバーを設け、そこに植物を絡ませました。白い壁が光を受け、植物やルーバーはどこか屋外を思わせる空間に。こうしてアイノ・アアルトは店の奥に擬似的に明るい空間を作り出しました。たっぷりとしたテーブルクロスの上に設置された真鍮製の照明「A330S ペンダント ゴールデンベル」も、オープン当初から使い続けられています。

元はオープンエアのテラス席でしたが、現在はガラスで覆われた客席に。ヘルシンキの一等地にあり、美しい風景を楽しめます。
光を奥まで取り込み、心地よい空間となるようにアイノ・アアルトが細部までこだわった席。まるでパーゴラの下で食事を楽しんでいるかのような気分に。
サービステーブルもアアルト ベース同様、波形を描きます。
7階の個室。この空間のためにつくられた特別仕様のゴールデンベルのシャンデリア。ヘルシンキのアルテックストアのエントランスで再現されています。Savoy ●Eteläesplanadi 14, 00130 Helsinki 営業時間:11時30分~15時、18時〜24時(月〜金) 18時〜24時(土) 定休日:日 ドレスコード:スマートカジュアル www.ravintolasavoy.fi

アームにレザーを巻きつけたニレ材の椅子も、アイノ・アアルトがサヴォイ レストランのためにデザインをしたものです。カーテンやテーブルクロス、テラス席のランプシェードに使うシルクなど、ファブリックにもこだわりが見られます。濃紺のベンチシートの端部に丸い穴を開けた木製の袖壁など、アアルト夫妻らしいデザインアイコンが随所に見られるのもファンとしては楽しい限りでしょう。ガラスの器に活けられた植物もオープン当初から続くもの。アイノ・アアルトは空間を設計し、コーディネートする力に長けていました。

このようにアイノ・アアルトはアルテックの一員として、機能的でありながら美しいインテリアデザインをいくつも手がけていきました。彼女は41年にアルテックの社長となり、戦中戦後もアルテックで手腕をふるいつつ、アメリカに渡ったアアルトに代わり設計事務所も運営していったのです。

本を開いたような形状のトップライトが店内に優しい光を落とし込みます。吹き抜けに面して左手の奥が「カフェ アアルト」。映画にも登場し、日本からの観光客にも人気のスポットです。
後期のアアルトが得意とする白い大理石の空間。とはいえ威圧的な印象はなく、トップライトと巧みな照明計画で居心地のよい空間が生まれています。Akateeminen Kirjakauppa ●Keskuskatu 1 / Pohjoisesplanadi 39 00101 Helsinki 営業時間:9時~21時(月〜金) 9時~19時(土) 11時~18時(日) www.akateeminen.com

アアルトが1969年に設計したフィンランド最大の書店「アカデミア書店」はヘルシンキの中心部にある老舗デパート「ストックマン」に面して立ちます。

後期のアアルトらしく店内を覆うのは白い大理石。開放的な三層吹き抜けの空間に面して回廊のような形で書棚やカフェが並びます。特に目を引くのは本を開いたようなかたちをしたトップライトでしょう。少しでも多くの光を取り込もうと店内を優しく照らします。アアルトらしい「波」はここでも健在で、店内に入るドアのハンドルはその際たるものといっていいでしょう。

またここはアアルトの名を冠した「カフェ アアルト」が入り、地元客はもちろん、観光客で賑わいます。アアルトの死後に完成したこのカフェはもともと、アカデミア書店の二つ隣にあるアアルト設計のオフィスビル「ラウタ・タロ」内にあったカフェの家具を引き継いで生まれた場所。ゴールデンベルや大理石のテーブル、レザー張りの椅子などとともに、アルネ・ヤコブセンのアントチェアも当時から引き継がれたものと言います。

先述のアカデミア書店、ラウタ・タロというアアルト作品に挟まれたビルに入るアルテック。2016年に現在の地に移転。なおこのビルはアアルトが建築家を志すきっかけともなったエリエル・サーリネンが設計したものです。

1935年、アアルトはアイノ・アアルト、マイレ・グリクセン、美術史家のニルス=グスタフ・ハールとともににインテリアブランド「Artek(アルテック)」を設立します。その名は、モダニズムが目指した「アートとテクノロジーの融合」への共感を込め、Art(芸術)とTechnology(技術)に由来する造語です。

アアルトはアルテック創業前の1920年代から曲げ木の開発に取り組んでおり、1933 年にはのちにアルテックの商品に欠かせない積層合板と曲げ加工によるL字型の脚「L−レッグ」で特許を取得します。つづいて「ラメラ曲げ木」の技術を完成させ、木材を高い強度をもつ現代的な素材としてアップデートさせました。フィンランド産のバーチ材を家具に用いるための新しい技術の開発により、アアルトらは芸術と技術が融合よるモダンな生活がすべての人に対して実現されることを目指したのです。

1936年のオープン当初から、アルテックだけでなくさまざまな家具ブランドやインテリアアクセサリーをともにディスプレイして提案する、現代においてのライフスタイルショップに近い存在でした。アアルト夫妻は自宅のダイニングセットのようにアルテックだけで家具を揃えるのではなく、自由な組み合わせを推奨していました。その精神が息づいているのかもしれません。
日本でも人気の高い「スツール 60」は1933年にロンドンで開催された「Wood Only」展で初めて発表されました。アアルトのデザインを特徴付ける「L-レッグ」を用いた最初の作品です。35年、アルテック創立のわずか数日前に完成したアルヴァ・アアルト設計の「ヴィープリ図書館」のオーディトリウムに初めて設置されています。
アルテックのアイコンとして愛される3本脚のスツール 60。ヘルシンキの本店では座面や脚をそれぞれに好きな色を選び、自分好みのカラーコーディネートでカスタマイズが可能です。デザイナーのヘラ・ヨンゲリウスが新たに加えたウォールナットとハニーステイン仕上げの脚も選ぶことができます。
ベッドにもソファにも使える1933年にデザインされたデイベッド。クッションに使われるのは、アルヴァ・アアルト、アイノ・アアルトがそれぞれにデザインしたファブリックを使ったクッション。Artek Helsinki ●Keskuskatu 1 B 00100 Helsinki 営業時間:10時~19時(月〜金) 10時〜18時 定休日:日 www.artek.fi

そもそもアアルトたちはアルテックをただの家具メーカーだと考えていませんでした。1936年にオープンした最初の店舗ではパブロ・ピカソやフェルナン・レジェの展覧会を開催。展示や啓蒙活動を通してモダニズムの文化を促進することを目指したといいます。家具やインテリア、アート、工芸が一体となって生活の提案を行う。その姿は現在のアルテックにも受け継がれています。

そうした創業者の意思が継承されるアルテックで2007年に始まったのが「2nd Cycle(セカンドサイクル)」というユニークなプロジェクトです。自社の家具がフィンランドの家庭のどこにでもある背景を逆手に取り、これまで学校や福祉施設、個人の住宅などで愛用されてきたスツール60を回収して新たなものに交換。回収したスツールはその足跡を示すタグを付けて再び販売したのです。

11年には専門の販売店がオープン。時代ごとに微妙に表情を変えるアルテックの名作はもちろんのこと、他社のセカンド商品も並ぶ姿は、マニアにとってミュージアム以上の存在かもしれません。ここでスタッフは商品を「pre-loved products(愛着あるもの)」と呼びます。まさに長く愛されるデザインと、それを受け継ぐためのプラットフォームになっているのです。

デザインミュージアムのすぐ近くにあるアルテック2nd Cycleのショップ。店内には、アルヴァ・アアルトについでアルテックで数多くの家具をデザインしたイルマリ・タピオヴァーラの充実したヴィンテージコレクションなど、見所多数です。
店内にはユニークなモデルや以前のユーザーが思い思いにカスタマイズした品など、他にない品揃えが魅力的です。Artek 2nd Cycle Store ●Pieni Roobertinkatu 4-6 00130 Helsinki 営業時間:11時~19時(木、金) 11時〜14時(土) 定休日:月〜水、日 www.artek.fi/2ndcycle/

「形には中身が伴っていないければいけないし、中身は自然に繋がっていなければいけない」

フィンランドにおけるモダニズムの父と呼ばれるアルヴァ・アアルト。そのモダニズムが同時代を生きた他の建築家と異なるのは、祖国フィンランドの風景から色や形に学びを得たことにあります。そのデザインは、いまも自然との深いつながりを大切にする国民性に根付き、そして世界の人々を魅了し続けているのです。

参考資料:『Alvar Aalto: Second Nature』Vitra Design Stiftung刊 『Artek and the Aaltos: Creating a Modern World』Bard Center刊 『アルヴァー・アールト―1898-1976』デルファイ研究所刊