フィンランドを代表するブランド「マリメッコ」「アラビア」は、北欧デザインの代名詞として日本でも非常に高い人気を誇るブランドです。そんなフィンランドを代表する両ブランドに携わった日本人デザイナーが、石本藤雄さん。今秋、生まれ故郷の愛媛県を皮切りに回顧展を行う石本さんの足跡を追ってヘルシンキ、松山でインタビューを行いました。
日本はもちろん、世界中で愛される北欧のデザイン。しかしひとくちに北欧といえど、国によってその魅力、個性もさまざまです。北欧の東端にある国、フィンランドの名を聞いて多くの人がまず思い浮かべるのは、テキスタイルを中心にファッションアイテムや雑貨などを扱う「マリメッコ」、そして陶器を展開する「イッタラ」「アラビア」ではないでしょうか。
そんなフィンランドを代表する「マリメッコ」や「アラビア」に深く携わった日本人デザイナーがいることをご存じでしょうか。現在もフィンランドのヘルシンキで暮らす石本藤雄さんが、その人です。
世界一周の果てにたどり着いたフィンランドで、学生の頃からの夢を叶える。
1974年から2006年まで「マリメッコ」のデザイナーとして300におよぶ柄を生みだし、1990年代からは「アラビア」のアート・デパートメントにアトリエを構えて作陶を始めた石本藤雄さん。2010年にはフィンランドの芸術家に贈られる最高位の勲章、フィンランド獅子勲章プロ・フィンランディア・メダルを受章した、フィンランドを代表するデザイナーのひとりです。
布、陶ともに大胆でありながら繊細さをももち合わせ、自然の美しい一瞬を捉えたモチーフに、世代や国籍を超えてファンも多い石本さん。いまなお、マリメッコで新たに発表される若いデザイナーのテキスタイルには石本さんの影響を見て取ることができます。しかしなぜ石本さんはフィンランドに居を構えることにしたのでしょうか。
1941年、愛媛県砥部町で生まれた石本さん。海軍を経て家業のみかん農家を継いだ父のもとで美しい山並みに囲まれて育ち、進学とともに上京します。
「私が生まれ育ったのは日常づかいの器として知られる砥部焼の産地です。昭和10年ごろまで景気もよかったようですが、戦争の影響で衰退を始めます。父は松林をみかん畑に開拓すると同時に、窯元の作業場を買い取って自宅を建てることにしました。子どものころは人が入っていけるくらいの大きな登り窯で遊んでいたことを覚えています。みかん畑に隣接した松林からは葉の触れ合う音が届くような静かなところで、当時は家の裏手に焼き物のかけらがごろごろしていました。ずいぶんと後になってインターネットで調べたのですが、砥部焼の創設者である杉野丈助の家も私の育った家のあたりにあったそうです。子どものころに学校の芝居で杉野について取り上げたこともあって彼のことをよく覚えていましたが、ずいぶん驚いたものです」
東京藝術大学美術学部工芸科を卒業後、繊維問屋の市田に入社。その時に入社を勧めてくれたのは、藝大の先輩である石岡瑛子さんだったと言います。広告デザイナーとして入社した石本さんは、PR誌のアートディレクションをはじめ、グラフィックデザインや展示会ディスプレイ、そして呉服の柄まで手がけました。しかし1970年、30歳になる直前で石本さんは大きな決断をします。
より広い世界を見たいと、世界一周の旅に出ることを決意したのです。
退職金に加え、当時もっていた自動車を売り、不足分は会社の上司に借りて行き先の変更が可能な世界一周のエアチケットを購入した石本さん。その年の夏、まずはアメリカ西海岸へ向かいます。サンフランシスコやロサンゼルスを経て、ニューヨーク、モントリオール、ロンドン、そしてデンマークのコペンハーゲンへ。ニューヨークでは既に見聞きしていた情報が多かったといいますが、スウィンギング・ロンドンと呼ばれた60年代の熱をまだ帯びていたロンドンにずいぶんと刺激を受けたと振り返ります。
日本を出て3カ月で到着したコペンハーゲンでは旅費もずいぶんと少なくなり焦りを感じていた石本さん。しかしここで、学生時代に感銘を受けたマリメッコのテキスタイルに再会します。「マリメッコのデザイナーになりたい」。そんな夢を抱いた学生時代を思い出し、パリに向かう予定だった旅程をフィンランドへと変更。これが石本さんにとって大きな転機となりました。
話は少し前に戻り、1964年のこと。日本橋にあった百貨店・白木屋で開かれていた展覧会で石本さんは北欧のデザインを目にします。それまでも雑誌などで目にしていたものの、実物が与える感動は大きく違ったと振り返ります。
「なかでもビルガー・カイピアイネン(アラビアから現在も販売されている花実やベリーを描いた「パラティッシ」のデザインなどで知られる陶芸作家)のパンジーを描いた陶芸作品に大きな影響を受けました。この時に日本の焼き物とはまったく違う考え方があることを初めて意識したんでしょうね」
この展覧会には出品されていなかったものの、その当時、銀座にあったフィンランドの家具メーカー「アスコ」のショールームではマリメッコの布を使ったデコレーションがなされており、その姿もまた石本さんの心を奪いました。コペンハーゲンで再会したマリメッコのファブリックに、石本さんはその感動を思い出したのです。
布から陶へ、幼少期の記憶をたどり土を使った作品に挑む。
1970年の秋、ヘルシンキに到着した石本さんはマリメッコを創業したアルミ・ラティアを訪ねます。その際、石本さんは市田に在籍していた際に制作したビジュアルブックを持参。見るなりそれを気に入った彼女は、設立したばかりのマリメッコの小物を扱う会社「Décembre(ディッセンブレ)」への入社を薦めます。
「屋久島や北海道でロケを行ったファッションの写真が彼女の心に響いたようでした。もともとは3週間の試用期間を経て本採用と言われていたものの、1週間で本採用が決まり、ビザも発行されました。旅費もほとんど残っていなかったので1日でも早く働きたかったのでずいぶんとほっとしたものです。当時はビザも簡単に発行してくれたんですね」
とはいえ、やはり石本さんが目指すのはマリメッコでの仕事。その後もマリメッコの入社試験を受け続け、1974年に3度目の挑戦でデザイナーとしての採用が決まります。やがてデザイナーとなった石本さんによるテキスタイルの数々は、それまでのマリメッコとは異なる作風で人気を集め、70~80年代のマリメッコの人気を支えていくことになります。
1970年に渡欧して以来、石本さんは74年と81年に帰国した程度であまり日本へ足を運ぶことはありませんでした。しかし80年代にマリメッコが日本企業とライセンス契約を結んだことから毎年のように帰国することに。渡欧してからの10年で日本は激変していたと振り返ります。
「以前使われていた言葉が違う言葉に変わっていたりと、あまりに大きな変化が多くて戸惑うこともありました。まさに浦島太郎なわけです。そんな80年代、日本では焼き物ブームが起こっていたんです。同じ頃、フィンランドの大学でデザインを教えていた教員に頼まれて日本の産地をいくつもいっしょに巡ることがありました。そうしているうちに、やがて焼き物に惹かれていきました。もちろん幼少時のことも思い出しました」
大分県の小鹿田焼、兵庫県丹波の立杭焼などの産地を訪ね、70年代の沖縄で制作された古いやちむんなどを収集するなど、気がつけば陶芸の魅力に心を奪われた石本さん。そこで石本さんは89年から90年にかけてマリメッコでの仕事を休み、アラビアからの奨学金で客員作家として自ら陶芸に挑むことにしたのです。
「マリメッコとアラビアが親しかったこともあり、まずはマリメッコでの仕事を半年ほど休んで本格的な作陶を始めました。しかしそれは予定よりもはるかに長引いてしまい、半年の予定は13カ月となってしまいました」
その後はマリメッコのデザイナーとして仕事に復帰しつつ、石本さんは週末になるとアラビアに通って陶芸を続けることになります。量産ではなく作家性を重んじたアラビアのアートデパートメント。そこに所属する他の陶芸家はみな社員でしたが、石本さんはここにアトリエを借り、いまなお活動を続けています。2006年まではマリメッコのデザイナー職と並行して活動を続けていました。
「アラビアには、独自のカラーパレットをもった釉薬をもっていました。改良しながら色を試しつつ、それをいまも使っています」
日本では2010年に青山の「スパイラルガーデン」でマリメッコ時代の作品とともに、花のレリーフ作品や立体作品を展示しています。これら花の作品は2000年にフィンランドの湖水地方にある鍾乳洞で、アラビアの作家たちとともに展示会を開いた際に生まれたもの。石を切り開いた地で得たインスピレーションから生まれたバラの花がきっかけだったといいます。
「子どもの頃はいつも焼き物が身近にありました。ただ私は茶碗がつくりたいのではなく、粘土を捏ねて、なにかがしたかったんです。幸い、アラビアのアートデパートメントには焼き物そのものをつくる人も、そこに絵を描く人もいました」
そうした環境から生まれた石本さんの作品は、マリメッコでデザインしていた時代に描かれた自然のモチーフが、立体となって立ち上がったような魅力をもっています。自然そのものを丹念に写し取るのではなく、抽象化されたその姿に石本さん自身は自作を「アブストラクト」であるといいます。とはいえその繊細で美しい色づかいは、わたしたちの記憶に眠る自然への思いと共鳴しあい、緑や風の豊かな香りを届けてくれるかのようです。
花や果実、自然の美しさを捉え、国籍や世代を超えた共感を呼ぶ作品を。
作陶に専念するようになった石本さんは近年、作家として日本で展覧会を重ねています。先述の青山にあるスパイラルガーデンのほか、美術館やギャラリーなどでの展示を行い、さらには愛媛県松山市の道後温泉で行われた「道後オンセナート2014」にも出展。こうして展示を重ねる石本さんにはいま、世代を超えたファンが数多くいます。
生まれ育った砥部に隣接する愛媛県松山市で今年3月、「道後オンセナート2014」で作品展示を行ったホテル「茶玻瑠」のエグゼクティブフロアに石本さんが携わった客室がオープンしました。石本さん自らがインテリアを見立て、客室ごとに自然をモチーフにした陶芸作品を設置しています。
「茶玻瑠では陶芸作品をどのように持ち込むかをまず考えました」と石本さんは振り返ります。そのうえでやはりマリメッコのテキスタイルが必要だったといいます。
「テキスタイルがあれば空間をつくることができるんです。シンプルな空間だからこそ、壁面に飾られた陶板の作品と宿泊者をつなぐ役割を部屋の随所に飾られたテキスタイルに託しました。気分が変われば、布を変えて趣を変えていけばいいんですよ」
ベッドスローやクッションなどにもふんだんに石本さんのテキスタイルが使われ、柄は部屋ごとにそれぞれ異なります。こうした布づかいは自宅でも応用ができそう。
「この部屋はデザインが強くないところがいいですね。陶板を飾った床の間など、空間のポイントは床にあるように感じました。陶板は正月飾りのように、テキスタイルは花を生けたりするように楽しんでくれればいいんです」
空間を確認して満足した石本さんは「次はキャベツをつくって飾るのもいいかな」と笑っていました。
また一方、先日まで開催されていた福岡県にある太宰府天満宮での展覧会「太宰府、フィンランド、夏の気配。」にも参加した石本さん。石本さんは宝物殿を会場に「実のかたち」と題し、太宰府天満宮の象徴である梅の実や、夏に旬を迎える冬瓜、あるいはヤマモモ、ブドウ、木苺、南天の実をモチーフとした陶器作品を出品しました。実のモチーフに挑むきっかけは、2015年のクリスマスに滞在していたある温泉宿の床の間の風景にあったといいます。
「その旅館では、床の間の正月飾りに冬瓜を供えていたんです。そこで思い出したのがとある黒澤明の映画です。終戦後すぐという時代に、主婦が隣家からいただいたカボチャを、縁側に布を敷いて置くというシーンがありました。大切なものをうやうやしく敷物の上に置くという行為は非常に日本の精神を感じるものです」
もちろん、冬瓜のシンプルな造形そのものも魅力のひとつだと石本さんは言います。
「畳の上や板の間にごろんと転がして展示するのもいいかなと思っています。日常の風景にこの作品がころっところがっている姿がいいなと」
この冬瓜の展示案は、まもなく実際に見ることができるかもしれません。いま、石本さんは今年の秋に愛媛県美術館で行われる展覧会の準備に取り掛かっているところです。
「この展覧会では、これまでの作品のほか、スケッチやアイデアソースとなったものなどの展示を考えています。また今回は、美術館に収蔵されている作品との組み合わせという展示も考えているんです。愛媛県美術館にはセザンヌやモネといった作家のほか、松山育ちのひとであれば誰でも知っている書家、三輪田米山が77歳で書いた書などを所蔵しています。今回の展示ではそれらの作品と私の作品が呼応するような作品展示を考えています。展示を通じて、館が収蔵する作品との対話ができればと」
この展覧会に並行して、愛媛県美術館のほか、砥部にある窯業技術センターや茶玻瑠、石本さんが松山市内でプロデュースしたギャラリー「MUSTAKIVI(ムスタキビ)」なども会場となって、複数の展示を行う予定です。「大変ですよ」と苦笑いする石本さんですが、ファンにとってはまたとない貴重な機会。なお美術館の展示は京都、東京への巡回も予定されています。
数度にわたるインタビューで驚かされるのは、石本さんの記憶力。幼少時に見た風景と、つい最近心奪われた風景を同じ濃度で語るその視点が、布と陶、これまでの石本さんの作品をつくりだしてきたものなのでしょう。石本さんの作品はいずれも、自然に潜む空気や光、風の動き、季節の移ろいを感じられるものです。
日本を出てフィンランドへ。そして再びフィンランドから日本へ。ふたつの国がもつ自然の喜びを描く石本さんの作品を見に、この秋はぜひ松山へと出かけてみてはいかがでしょう。
石本藤雄展
開催期間:2018年10月27日(土)~12月16日(日)
開催場所:愛媛県美術館
愛媛県松山市堀之内
TEL:089-932-0010
開場時間:9時40分~18時(入場は17時30分まで)
www.ehime-art.jp
石本藤雄×茶玻瑠「Suuri Taiga/大草原」
茶玻瑠
住所:愛媛県松山市道後湯月町4-4 茶玻瑠9Fエグゼクティブフロア
TEL:089-945-1321
www.chaharu.com