最初に手掛けた2,970頁におよぶ叙事詩『揺りかごから墓場まで』(1908-12年)の一枚。ここでは主人公ドルフィ(アドルフの愛称)が家族とともに世界中を旅し、危機を乗り越え、冒険や発見を繰り返す波乱万丈な物語が、人物や建物、地図や音符とともにカラフルに描かれます。 アドルフ・ヴェルフリ《ネゲルハル〔黒人の響き〕》1911年 ベルン美術館 アドルフ・ヴェルフリ財団蔵 ©Adolf Wölfli Foundation, Museum of Fine Arts Bern
アール・ブリュット。フランス語で「生(き)の芸術」を表すこの言葉は、正規の美術教育や既存の芸術の影響を受けずに、きわめて高い独自性で生み出された芸術をさすものとして1940年代に画家ジャン・デビュッフェが提唱しました。英語で「アウトサイダー・アート」とも呼ばれます。このアール・ブリュットの画家として彼が最も支持し、現在世界的にも高く評価されながら、日本ではほとんど知られていないアドルフ・ヴェルフリの、日本初の大規模個展が東京ステーションギャラリーで開催されています。
1864年、スイス・ベルン郊外の貧しい家庭で7人兄弟の末っ子に生まれたヴェルフリは、酒癖の悪い父と病弱な母の下、幼い時から里子奉公制度に委ねられ里親を転々とします。通学もままならず、厳しい労働と折檻の中、孤独で悲惨な子供時代を過ごしました。長じてからも生活は不安定で、恋愛もうまくいかず、数度の犯罪の末、31歳の時に統合失調症と診断されて精神科病院に収容されました。4年後、鉛筆と新聞紙を与えられた彼は突如絵を描きはじめます。以後没するまでの約30年間、閉ざされた病院の一室でひたすら描き続けた作品数は25,000ページ。5つの「書物」と最初期のドローイングなどの多くは、75年にベルン美術館内に設立されたアドルフ・ヴェルフリン財団に収蔵されました。その中から初期から晩年まで、厳選の74点でたどる空間では、「アール・ブリュット」の源流とその意味、抗いがたいその力を体感できます。
強迫的に埋めつくされた画面には、顔(自画像)、装飾帯、彼が「フォーゲリ(鳥)」と名づける動物などと文字や数字、音符がひしめき、うねり、響き合っています。その中で、ヴェルフリは不幸な生い立ちを魅力的な冒険譚に書き換え、理想の王国で世界征服から宇宙進出をたくらみ、王国を祝した音楽や自らのレクイエムを作曲、壮大な世界を歌い上げます。ともすれば誇大妄想とも思える無限の物語は、そのエキセントリックさへの恐怖とともに、ファンタスティックな楽しさとどこか切なささえともないます。
彼にとって身体のある現実は、頭の中にある現実を表現するための素材収集の場で、彼の「リアル」は、この25,000ページにあったのです。「狂気」が生む「空想」とするにはあまりに生々しいその「世界」。ヴァーチャルが氾濫する現代に、何が「リアル」か、そして何が「アウトサイダー」か、認識の境界を、その境界を作るわたしたちの意識を改めて考えさせられます。
診断記録によればヴェルフリがドローイングを始めたのは1899年ですが、現存するのは1904-07年のわずか50点ほど。新聞紙に描かれた最初期の作品を彼は「楽譜」と呼び「シャングナウの作曲家」と署名していました。音符のない線譜と鉛筆の濃淡で埋めつくされた画面からは、パイプオルガンのような荘厳な響きが聞こえそう・・・。 アドルフ・ヴェルフリ 《小鳥=揺りかご.田舎の=警察官.聖アドルフⅡ世., 1866年, 不幸な災=難》 1916年 ベルン美術館 アドルフ・ヴェルフリ財団蔵 ©Adolf Wölfli Foundation, Museum of Fine Arts Bern
1912-16年に描かれた『地理と代数の書』は、『揺りかご~』で不幸な過去を描き換えた彼が、死後「聖アドルフ巨大創造物」という王国を築き「聖アドルフⅡ世」となる未来の物語。「聖アドルフ資本財産」が無限に生み出す利子で地球を買い上げ、やがて宇宙へと支配を拡げていく壮大なストーリーです。 アドルフ・ヴェルフリ 《小鳥=揺りかご.田舎の=警察官.聖アドルフⅡ世., 1866年, 不幸な災=難》 1916年 ベルン美術館 アドルフ・ヴェルフリ財団蔵 ©Adolf Wölfli Foundation, Museum of Fine Arts Bern
「聖アドルフ巨大創造物」祝祭のために作曲された『歌と歌舞の書』は、行進曲、ポルカ、マズルカが7,000頁以上にまとめられています。各々の曲がさまざまに入れ子状に組み込まれ重層的に響くように構成された楽譜には、家族や少女、田園風景、自然の暴力、快楽、異国趣味などがモチーフの雑誌の切り抜きのコラージュでイメージが補完されます。 アドルフ・ヴェルフリ 《フリードリヒ大王の揺りかごの側で》 1917年 ベルン美術館 アドルフ・ヴェルフリ財団蔵 ©Adolf Wölfli Foundation, Museum of Fine Arts Bern
ヴェルフリの担当医モルゲンターラーが「ブロートクンスト(パンのための芸術)」と名づけた単一作品は1916-30年の間で1000点以上にのぼると考えらます。多くは色鉛筆で描かれるドローイングは、さらに描くための色鉛筆やタバコと交換したり、病院の職員や訪ねてくる称賛者たちに売っていたそうです。現在約750点が確認されています。 アドルフ・ヴェルフリ 《ヴェイエリアーナ・フォン・デュルシア》 1917年 ベルン美術館 アドルフ・ヴェルフリ財団蔵 ©Adolf Wölfli Foundation, Museum of Fine Arts Bern
1928年から30年のその死まで手がけた『葬送行進曲』(未完)は文章とコラージュからなる全16冊、8,000頁を超える自身のレクイエムといわれるもの。彼のキーワードと「ヴィーガ(方言でゆりかご)」という言葉を組み合わせた呪文のような抽象的な音声詩は、会場で朗読ビデオが流れています。自作を前に紙のトランペットを持つ作家の晩年の写真からは、眼光に尽きせぬ創造力が感じられます。 左:アドルフ・ヴェルフリ 《無題(キャンベル・トマト・スープ)》 1929年 / 右:紙のトランペットを持つアドルフ・ヴェルフリ 1926年 ともにベルン美術館 アドルフ・ヴェルフリ財団蔵 ©Adolf Wölfli Foundation, Museum of Fine Arts Bern