戦国大名にとって要となる場といえば、もちろん城だ。そこをいかに頑丈なものにできるかは、築城手にかかっている。戦の面だけが取り上げられがちな戦国武将だが、彼らが発揮した城づくりの才能にスポットを当てたい。
明智光秀はなぜ「本能寺の変」を起こしたのか? 「関ヶ原の戦い」で真の裏切り者は誰だったのか? 戦国時代には多くの謎が残され、そんな歴史の悪戯が人々の興味関心を惹きつけることで、それらを題材としたエンターテインメント作品も数多く生まれてきた。一方で、近年の研究でわかった事実もたくさんある。上杉謙信の度重なる北条攻めには意図があったこと、“悪人”の汚名を着せられた松永久秀は冤罪の可能性があったこと……。現在発売中のPen最新号「戦国武将のすべて」では、あらゆる角度から戦国武将の実像に迫る!
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藤堂高虎/1556~1630年/今治城など
家康も傾倒した、城づくりの第一人者
戦国時代随一の築城の名手と言われるのが、伊勢津藩の初代藩主・藤堂高虎。近江国に生まれ、浅井長政や豊臣秀吉の弟である秀長、徳川家康などに仕える中で、数々の戦に参戦して功績を上げた。
武功もさることながら、高虎が注目を浴びたのはその築城術。膳所城や江戸城伏見櫓、二条城など、重要な拠点を多数手がけた。関ヶ原の戦いの恩賞として与えられた伊予の地に今治城を建築。城を囲む三重の堀に瀬戸内海の海水を引き入れて水軍基地としての機能をもたせたり、日本初の層塔型天守とされる五重天守をつくるなど、高虎ならではの斬新な試みが盛り込まれている。家康も高虎を高く評価していたことから、上野東照宮には家康を補佐する神として、南光坊天海とともに、高虎が祀られている。
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高山右近(たかやまうこん)、高山重友/1552~1615年/金沢城など
地形を活かした、難攻不落の砦を考案
高山右近は摂津国に生まれ、織田信長や豊臣秀吉に仕えたキリシタン大名。21歳で高槻城の城主となり、淀川の水を城の周囲に引き込むなどして、高槻城を難攻不落の名城に仕立てた。
豊臣政権下のバテレン追放令を受けて浪人となった後は、小西行長や前田利家らの庇護を受け、利家の命によって金沢城や高岡城などの城も手がけている。金沢城には当時まだ珍しい西内惣構堀という堀をつくり、堅牢な防御を提案。高岡城はたった200日間で築城したといわれ、大胆な構造から江戸城や大坂城にも並ぶ名城として知られた。
地形を活かした築城術を駆使して数々の城を手がけるも、江戸時代に幕府が出したキリシタン国外追放令を受け、フィリピンのマニラで生涯を終えた。
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加藤嘉明(かとうよしあき)/1563~1631年/松山城
ユニークな櫓や石垣を取り入れた、四国の雄
豊臣家の家臣として功を上げた、「賤ヶ岳の七本槍」のひとり、加藤嘉明。彼は伊予松山藩や陸奥会津藩の初代藩主として、伊予に「堅牢の城」と呼ばれた松山城をつくり上げた築城の名手だ。
秀吉から伊予地方の有力豪族の河野氏の目付を頼まれていた嘉明は、軍事拠点として松山城を建築。日本で唯一現存する望楼型二重櫓の野原櫓や高石垣など、ユニークな特徴で知られる松山城は、城郭建築としては四国で最大規模といわれている。
重要文化財に指定された大天守をはじめ、小天守、隅櫓を渡櫓で結んだ「連立式天守」、朝鮮出兵の際に日本軍が築城した倭城で使われた「登り石垣」などを採用。城の建築面のみならず、伊予川の改修工事など城下町を発展させる施策も数多く行った。
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馬場信春(ばばのぶはる)、馬場信房/1514~1575年/小山城など
「甲州流築城術」で、武田家の拠点を築く
武田信玄の家臣の中でも、四天王に数えられる美濃の馬場信春。70回以上の戦に出陣して、「長篠の戦い」で戦死するまでは手傷ひとつ負わず、「不死身の馬場美濃」と呼ばれた。
諏訪原城や牧之島城、後の松本城となる深志城、田中城、小山城など、武田家の城を次々に築いた。それらの城は、後世「甲州流築城術」と呼ばれる特徴を数多く備えていた。たとえば、難攻不落の城として知られる小山城には、敵兵から攻めづらくするため「三日月堀」と呼ばれる半円の堀や、城の出入り口の外側に小さな半円形の曲輪をつくる丸馬出などを採用。犀川に囲まれた「自然の要塞」といわれた諏訪原城にも丸馬出を用いた。信春がどのように築城を学んだのかは定かではないが、武田家の軍師・山本勘助から教わったとの説もある。
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明智光秀/1528~1582年/福知山城など
安土城に先立つ名要塞を生んだ、意外な腕前
かの有名な明智光秀も、実は築城の名手として知られる。主君である織田信長の支配を強固にするため、京都奉行として丹波亀山城や周山城をはじめとする多数の城を築いた。
最初に光秀がつくったのが、近江国の坂本城。安土城よりも早く天守を取り入れた画期的な城で、宣教師ルイス・フロイスの『日本史』によれば、「坂本城は安土城に次ぐ規模をもち、この城ほど有名な城は天下になかった」との記載もある。
彼の手がけた城の中でも特に名高いのが、丹波の支配拠点として機能した福知山城。市街地を一望できる天守や500個以上の転用石を使った石垣の他、城下町を盛り上げるため、氾濫が多かった由良川を整備して堤防をつくるなど、先進的な施策も数多く取り入れた。
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池田輝政/1565~1613年/姫路城など
世界遺産となる城を手がけた、当代の名建築家
織田家の家臣として清須会議にも出席した、池田恒興を父にもつ輝政。織田信長や豊臣秀吉に仕えた後に徳川家康の家臣となり、播磨に52万石の領地を与えられた。
大坂城の豊臣秀頼ら西国大名の監視役を命じられた輝政は、自身の拠点である姫路城の大改築を実施。見る角度によって趣を変える立体的な「連立式天守閣」や、左回りに螺旋を描く迷路のようにつくられた内堀・中堀・外堀などを取り入れた、堅牢で豪華な城づくりを実現。輝政の工夫を盛り込んだ姫路城は日本屈指の名城とされ、1993年には法隆寺とともに日本で最初のユネスコ世界文化遺産にも指定。なお、輝政は天下普請としてその築城術を活かし、江戸城や篠山城、名古屋城など数々の城の整備にも携わった。
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